神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 71 対本願寺10年戦争終結

2022年11月22日 22時42分29秒 | 貧乏太閤記
 驚くも何もない、信長の姿は未だかって誰も見たことがないものだったからだ、ただスペイン人たちだけは家臣の驚く様を見て笑っている
「みなのもの、これが南蛮人の甲冑である、まことに丈夫で動きやすくできておる、佐久間着てみるか?」
いきなり名指しされて、この保守的な男は慌てた「と とんでもありませぬ、拙者には無用でござります」
「ははは、頭の固い老人には無理であろう」
「なんと、ご無体な」と言う佐久間を無視して信長はつづけた
「外を見よ」指さした方には黄金色の天守が光っている
「ユーロペには大小30もの国があるという、それぞれの国に帝がいるという、だがユーロペの国は、我が日本二百余州に散らばる国とはわけが違う、ユーロペの国とは小さな国でも、この日の本すべての広さに匹敵するそうじゃ」
「なんと!」座がざわめいた
そして、それぞれに帝がいる30余国の上に、法王と呼ばれる天子がおるそうじゃ、その者は神デウスの代理人で誰も侵すことができないという
そして、法王が祈りをささげる場所を天主堂と言う、そうじゃなロドリゲスよ」  ロドリゲスがうなずく
「よって、余もあの金色の塔を天守と名付けた、そして儂も今日より神の代理人である法王となる、皆はこれより、余のことを「天主様」と呼ぶのだ、今後わが家臣で許されて城を築く者は、すべて三層の天守を築くことを許す、そこに上って毎日安土を拝むのだ、改修に際しても許す、他国の大名と織田家の違いを世の者すべて知らしめようぞ」
「よいか、日の本の戦は早々に無くすのだ、二百余州の大名に余に従うよう働きかける、それに従わないものは攻め滅ぼす、そしてこの国の大名すべてを動員して明国まで押し出すのだ
明国は今、乱れておるという、われらが20万の軍を持ってスペインと共に攻め込めばいかに明国が大きくともわれらに従わざるを得ないのだ、よいかこの小さな島の中で勝った負けたという時代は終わりじゃ、大船を作って遥か南まで進んで交易をするのじゃ、これまでとは問題にならぬほど国が富む、どうじゃわかったか」
「ははーぁ」一同揃って平伏した、しかし佐久間をはじめ多くの者が腹の中で(お屋形様はどうされたのじゃ?気が狂ったのか?)と思った。
さすがに光秀となると(お屋形様は南蛮人に感化されて誇大妄想の癖が出たのではないか、南蛮人には気を付けねばなるまい)と警戒した。
しかし秀吉は違う、壮大な夢物語を聞かされて感動した(これはまた、お屋形様は二回りも三回りも大きゅうなられた、南蛮人相手の交易と言い、大船構想と言い、明国征服といいい、どれもこれも壮大な素晴らしいお考えじゃ、儂などには想像もつかなんだ、これはますます働き甲斐がでてきたわ)
徳川家康の腹のうちはいかに?、歳を経て家康はますますその口が重くなっている。

9月、各地で動きがあった
前にも述べたが光秀が攻めていた丹後の守護、一色氏(いっしき)が織田に恭順した
同じころ、伊勢では手柄を焦った織田信雄が伊賀に攻め込んで、なんと大敗を喫して、信長は激怒、勘当されるところであった
 何よりも大きい出来事は、荒木村重が家族家臣を有岡城に置き去りにして、わずかな家臣と包囲を潜り抜けて、尼崎城に脱出したことである
それからも二か月間家臣たちは織田の猛攻に耐えたがついに兵糧尽きて降参した
だが、信長は許さず、城兵から女中までことごとく首を刎ねて皆殺しにし、村重の妻子は磔にして殺し晒して、村重に見せしめとした。
これで邪魔なのは三木城だけとなったが、これもまた飢餓に苦しんで開城まじかであった。
城主別所長治の叔父らが何とか動ける城兵を率いて、苦し紛れの奇襲を敢行したが、秀吉は備えていた、そして一気にこれらを殲滅させたので落城が早まった。
 それから使者を送って降伏を促すと、戦う気力もうせて動くこともできない衰弱者ばかりであったから、交渉はたちまち成立した
 城主長治と一族の代表が切腹して、城を明け渡した、外に出てから安堵したのか死ぬ兵が多かったが、秀吉の軍はほとんど犠牲を払わずに三木城を落したのであった、天正8年(1580)正月であった。
この時、織田信長46歳、秀吉43歳、光秀52歳、徳川家康37歳、柴田勝家50歳、佐久間信盛52歳である

 信長の日本国統一の目玉であった「話し合いによる信長への臣従作戦」は各地で実行された。
三木城の別所氏は抵抗期間が長く、毛利家の被官であったからこれは切腹開城となったが、荒木村重の謀反は最初から原因がよくわからないこともあり、信長も村重を許して城だけ接収する気でいたのだ、過去にも松永久秀を二度も許している信長だ、ところが置き去りにされた村重の家臣代表と滝川一益の間で降伏調印がされたにもかかわらず、一人尼崎城に逃げ出した村重は降参しなかった、そのために多くの命が奪われたのであった。
また美作では宇喜多が単独で攻めて、いくつかの城を開城させた。秀吉も遠く因幡(いなば)まで攻め上って、鳥取城の山名豊国を交渉だけで降伏させて、城は任せたまま戻った。

 信長にとって「和平作戦」が成功した最大の成果は本願寺であった、10年にもわたる長い戦いは、信長の厭戦気分と海外への目移りで簡単に解決した。
和平条件は本願寺と石山の現状のまま譲り渡し、その一点だけだった
兵糧も武器も尽きかけ、周囲は織田軍ばかりになり、毛利の支援も受けられなくなった本願寺顕如にとって渡りに船であった
武家のように城主の切腹に代えて、などと信長は言わない、顕如および共に去っていく者たちの身の安全も保証した、4月顕如は石山を去って紀州に向かった。
ところがである、顕如が去ったあと寺を受け取りに織田の兵が行くと、門は堅く閉じて矢を射かけて来た
なんと顕如の息子、教如(きょうにょ)が降伏を拒んで閉じこもったのだった
もはや顕如のあずかり知らぬことである。
それにしても相次ぐ反織田勢力の衰退をもっとも憂いたのは毛利領、鞆(とも)で鞆幕府を自称して暗躍していた足利義昭であった
「ううむ、どいつもこいつも頼りない、もはや頼るのは九州大名だけなのか」

教如の反乱を聞いた秀長は
「これでは昔、兄者から聞いた、大国主とその息子のタケなんとやらの話そっくりじゃのう、あがいても無駄じゃというに、いつの世も未練タラタラの頑固者は居るものじゃ」秀長の言葉で秀吉は頑固一徹な佐久間信盛の顔が浮かんだ










月日の経つのは早い

2022年11月22日 09時49分15秒 | ライフスタイル
 世間では「コロナだ」「世界戦争だ」「核戦争だ」「ワールドカップだ」と様々に騒いでいるが、自分の日常は物価高に嫌な気分を感じる以外、なにも変わらない毎日。
 引っ越して7か月がたった、DIYなどで少しずつ住居らしさを取り戻しつつあるが、まだまだである。
それでも少しずつ家の中が明るくきれいになって行くのは楽しい、なにしろ築60年はたった家だから、所々に古臭さが見える
いずれこれもカラフルに換えていくつもりだ、金をかけずに人力で。
家の造りは大工さんが自分のために建てた家だから問題ないが、昔は沼田だったらしい地盤が問題で、我が家の通りの家はことごとく傾斜があるか、それを直すために地盤改良に金をかけている。
 ともあれ、新たな家を求める余裕は私の残りの人生の中では無理が決定したから、これで我慢するしかない。
家自体はまずまずの広さだから工夫して暮らせば、どうにかなるだろう
今は家の中に花をあちらこちらに飾り、家の中じゅう風が巡るような工夫をしている、エアコンの風と違い、自然の風は味も香りも違う。
我が家の後ろ半分は隣家と小庭同士がつながっているだけで自然が見える、南側は開けていて低い丘陵地帯の森に続いているから、以前住んでいた家より自然環境は良い。縁側に半日、日が差すのが良い。
以前の家は小庭さえなかったから、今の家は花を育てる楽しみがある
老後の住まいには悪くない、この先どうなるか?
私の人生そのものが確定していないので何とも言えないが、考えても仕方ないことは考えない、「一日一番に集中します」のお相撲さんじゃないが「一日一日を有意義に過ごす」ことが大事だと思う。