神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

空想歴史ドラマ 貧乏太閤記66 軍師黒田官兵衛

2022年11月17日 18時27分22秒 | 貧乏太閤記
「半兵衛よ、いかにしてあの官兵衛の気持ちをつかんだのじゃ?」
「はは 官兵衛を調べて見ましたところ、キリシタンでありました、それでわれらの与力である荒木殿の家中、高槻城主の高山右近殿もキリシタンであることを思い出し、高山様に一肌脱いでいただきました、織田様が畿内でキリシタンの教会を立てることを許可して、信者も相当増えていることを官兵衛に話して味方になるよう口説いてもらいたいと」
「それが成功したということか」
「まさに、思った以上の反応でありました、ただ高山様と官兵衛殿では人間がそうとう違っておりますぞ、官兵衛殿が純粋であるなどとお考えなさらぬように、なかなか頭の切れる野心家でもありそうです、まあ松永様ほどではないにしろ、少々やりすぎてしまうきらいはありそうですな」
「ほほう、半兵衛殿がそう申されるならそのとおりじゃ、心に刻んでおこう」

    案の定、小寺家では毛利へ味方することに決定した、黒田一族は御着を離れて姫路城の羽柴勢に合流した、官兵衛を慕う小寺家の侍も多くが官兵衛について姫路にやって来た。
それから2か月たらずの戦で、小寺政職は御着城を捨てて毛利領に逃げて行った、こうして播磨一国が織田家の手に入った
信長は秀吉の手際の良さを感嘆した、しかし秀吉はそこにとどまらず、秀長を大将にして北の播磨と但馬へ攻め込ませた。
毛利方の竹田城、上月城を相次いで短期間に落とした、竹田城は近年「天空の城」と呼ばれ観光フィーバーしているあの城である。
竹田城には羽柴秀長を、上月城にはかって毛利と中国を二分していた尼子氏の末孫、尼子勝久を入れた。
 秀吉は戦況報告のため、姫路城を蜂須賀家政と竹中半兵衛に任せて、黒田官兵衛を伴って、戦況報告にいったん京へ戻った
信長は嫡男信忠に岐阜を任せ、自分は最近、都の二条御所の防御を改修してここにいることが多い、そして琵琶湖畔の安土城を大々的な改修する動きを見せている、都にも伊勢にも美濃、尾張にも、越前にも均等な距離にある安土にどうやら信長は新城を築きたい様子である。

 道中、馬を並べて秀吉は官兵衛と語りながら進んだ
どちらも性格はオープンだから話も弾む、話好きなのも同じだ
半兵衛は冷静沈着な策士であるが、官兵衛も話せば話すほど半兵衛に劣らぬ策士であることがわかる、だが半兵衛に比べると軽薄感も否めない、一言二言言いすぎるきらいがある
「官兵衛よ、中国の諸大名がこぞって毛利に忠誠を誓っているのに、なぜそなただけが織田に味方する」
「それは毛利が生ぬるいからでござります、もし織田様と逆に上方に攻め込む姿を見せたなら拙者は真っ先に立って織田方に攻め込んだでありましょう、しかし実際は逆でありまする、ならば拙者は織田方として中国に攻め込む、それだけのことでござる、元来戦好きなのでありましょう」
「ふふふ、そうか官兵衛は戦好きであるか、お屋形様にはもってつけの侍であるな、喜ばれるであろう」

 秀吉たちは二条城に着いた、御所と言うのは将軍義昭の住まいとしていたからで、信長が住む今は「二条城」と呼び方を変えた
「おお、筑前(秀吉)か、此度の働きようやった、儂の目に狂いはなかったぞ、あっぱれじゃ」
「はは、ありがたきお言葉、そこに控えておりますのは御着の小寺一族の重臣だった小寺官兵衛、黒田官兵衛とも申しますが、自ら居城の姫路城を差し出し、そこを拠点に敵対した御着城、但馬攻めの拠点としたのでございます」
「おお、そなたが小寺官兵衛か存じておるぞ、此度の筑前への与力ご苦労である、これからも励め、そなたには儂からも褒美として1万石加増しよう」
「ははー ありがたきことにござります、忠勤励みます」
「大儀じゃ、筑前を大いに助けて中国を平定せよ」
信長は笑みで終始機嫌が良かった
「筑前、長浜にてしばし休養をとるがよい、疲れたであろう」
「いえ疲れなどありませぬが長浜にて秀勝の一周忌を行うつもりでございます」
「おおー そうであった、信長こころより、そなたに哀悼の意を伝えよう、さぞかし局も落胆しておろう」 信勝は信長の四男、信長は12人も男子がいる、そのため四男から下などはあまり気にかけていないようだ、秀吉にやったからには秀吉の子と割り切っている。
「ありがたきお言葉いたみいりまする、駿河の局はその後しばらく立ち直れぬほど落胆しました故、駿河に人をやり母御を探しましたら見つかりまして、長浜に呼び寄せたのでございます、およそ10年ぶりの再会で母子ともに泣き崩れまして、今は傷心をいやすため城を出て京に別邸を与えて母子で暮らしております」
「そうであったか、たしか母者は松下嘉兵衛に仕えた者であったなあ」
「その通りでございます、よくご存じで」
「ははは、知らでか、そなたの想い人であったのだろうが、それを娘を娶るなどはいかにも松永の女子塾の愛弟子であるそなたらしいわ」
「ああ! おからかいなされますな、冷や汗が出まする、そこに官兵衛がおりまする、松永の弟子と!まだまだ足元にも及びませぬ、恐れ入ります」
「ははは、冷や汗とな  うむ、ねねはどうしておるのじゃ」
「はっ ねねは駿河同様に落ち込みまして、無理もありませぬ、子がない故に7年も自分の子として育てただけにやはり落胆しております」
「そうであったか、長浜で一休みしたら安土に連れてまいれ、儂も明日には安土に発つ」
「ありがたきお言葉、必ずねねを連れて安土に参ります」
「それが良い、わしもねねの顔がみとうなった」

京で官兵衛と別れて秀吉は初女とふじ(駿河局)の屋敷に訪れて一泊した
初女とは10代に出会い、半年だけのきれいな付き合いであったから、駿河(ふじ)と並んでもなんら罪悪感はない
初女も奴婢同様の身に落ちたふじを秀吉が救ったいきさつを聞いていたから、ただただ感謝するばかりであった
自分も歳をとったが同じだけ初女も歳をとった、今も一人暮らしでいるというので、家中からよき伴侶を添わせようと考えた
そして「儂の扶持で暮らすもよし、松下殿のもとで仕えるもよし」と言うと
「私は、ここで寝泊まりして局の世話をしたり、時々は松下様の身の回りのお世話をいたします」と言った
これからは長きにわたり中国で戦に明け暮れることになる秀吉にとって、もはや色恋の感情はない「そなたの良きようにするがよい」と
翌朝には長浜城に入った
長浜城で数日、のんびりと暮らした、傷心のねねとも水入らずで過ごし、母も伴って琵琶湖で舟遊びもした、宴も楽しんだ、久々の戦から離れた骨休みであった
そして1週間後、秀吉はねねを伴って安土城に信長を訪問した
安土城は長浜城同様に湖水に面した城である、大きさも長浜城とほぼ同じくらいである
「筑前、儂は近くここを居城とするつもりじゃ」信長が唐突に言った



友達の絆

2022年11月17日 07時45分19秒 | yottin日記
Y子が逝って何日たつのか、それさえ忘れる薄情者だが、Y子のことは少しも忘れちゃいない。
 Y子とは高校時代の同期でクラスは一度も一緒にならないから知らないまま卒業した。  40歳ころ同級会の幹事会で、知り合った。
 今日一緒にお参りに行った、つーくん、Mくん、A子、B子とも知り合った、A子以外は高校時代話したこともなかった
それがY子および上記のメンバーも含めいつしか飲み友達になって、夜な夜な馴染みのママ一人のスナックで10人くらいで深夜まで飲み語り、歌いまくった
 そのうち名古屋で有名うどん店ののれん分けされた同級生MS君の店に食べに行こう」から始まった「修学旅行」は今年で21年連続続いている。
 Y子は常に事務局と会計をやってくれてリーダーだった、今回も企画の半ばまでやったのに突然倒れて帰らぬ人になった
「修学旅行」と名付けたのもY子だった
だから、彼女の元気だった写真をもって一緒に旅行をしてきた。
彼女が楽しみにしていたステーキの老舗でもスィーツの店でも2L版の額に入れた写真をテーブルに置いて一緒に楽しんだ
バスの中、夕食には四つ切の大きな写真を額に入れて正面に置いて酒をあげて一緒に楽しんだ。

 今日、上記4人と私の5人でY子の家にお参りに行ってきた
Y子の旦那さんDYさんが待っていてくれた、ようやく元気さが戻ってきたようだ
1時間半ほど思い出話を楽しくしてきた、仏間にはDYさんが子供のころ暮らした田舎のかやぶき屋根の家、市街地に引っ越してきたとき建てた家、今住んでいる大きな家の3枚の写真が飾ってあった
その古い家の写真でDYさんの田舎の家のあれこれがわだいになったが、私は気がついた
 DYさんが生まれたその家は市街地から25kmくらい山間部に入った集落で一級河川の支流に沿ったところにある
私の母方の孫家はDYさんの集落とは川を挟んだ反対側の集落だった
それを話したら、屋号を聞かれたので言ったら、DYさんの家から嫁いだ人と、私の孫家から嫁いだ人は、どちらも隣の集落のZ家の家人と結婚していた
すなわち姻戚であった
田舎では姻戚もすべて親戚と言うから、Y子と私は親戚だったことが今日判明した、田舎ではこういうことで絆が深まる
でもY子が生きているうちにわかればもっと楽しかったのに

 田舎は狭いから100年内に何らかの姻戚関係になることも多いし、探って行けば薄いつながりはいくらでも出てくる
Y子の従兄は私のカラオケ友達で一緒にボランティアをしていた仲間
DYさんと私の母の従弟は同級生だったという、またDYさんの妹も私たちと同級生である
DYさんのお母さんと私の母は一緒に大正琴を習っていた茶飲み友達だった
娯楽や一人で楽しめる施設が少ない田舎ではこうしたつながりが生きていく潤いになっている