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空想歴史ドラマ 貧乏太閤記62  侵略者信長

2022年11月13日 18時09分54秒 | 貧乏太閤記
浅井、朝倉を滅ぼし、足利義昭を京から追放して年号を元亀から天正に改めてから今日までの5年間は信長にとって一日たりとも休めぬ戦の連続であった

世間では信長を戦争の申し子のように言う、「悪魔」「天魔」「革命児」ともいう
だが、そもそもの始まりを思い起こせば、信長は尾張の片田舎で一族との主導権争いをしているだけの平凡な土豪の一人にすぎなかった
信長と、その父織田信秀の家は「織田弾正忠家」という織田一族の末端であった
ただ尾張半国を治める清州織田家の数多い家来の中で、信秀がもっとも過激で勇猛であったから、常に先頭に立って、侵略してくる今川家や斎藤家と戦っていたのだ。
それは侵略者ではなく国境警備隊と言った方が良い、いわゆる「専守防衛」の最前線だったのだ
信秀の死によって嫡子である信長は弾正忠家(だんじょうちゅうけ)を継いだ、あのころの信長はあまりにも非常識な男で、家臣の半分と実の母親までが人望高い弟、織田信勝を立て信長を廃するための戦を起こした、その時は今の重臣のトップである柴田勝家や林兄弟も弟に味方したのだった。
それを破り実弟信勝を殺した、それからは弟をそそのかした下4郡の守護代清州織田と戦い、これに勝ち尾張半国を手中にした、それもまだ防衛戦争だ

1562年には最大の危機、今川義元の3万の侵略軍にわずか3000で突入して今川義元の首を取って、徳川家康を今川から解放し、独立大名にして同盟した。
あそこまでは間違いなく信長は侵略者と戦う、愛国者だったのだ
信長が侵略者に変わったのは、正妻、濃の父であった斎藤道三が、自分の父は土岐氏であると信じた息子の斎藤義龍に殺された時からだ
初めは仇討のつもりだったが、義龍の跡を継いだ竜興が斎藤家の重臣も見放すほどの愚か者であることを知り美濃を攻め取る気になったのだ
それまでは美濃は強敵で、国境の小競り合いはあったが互いに侵略することはなかった、それを破ったのは信長であった
その引き金となったのは自分が見出して育てた木下秀吉の台頭であった
織田家の柱石、豪勇で鳴らした柴田勝家、佐久間信盛、林兄弟と重臣が居たが彼らは武闘派であった
ところが木下秀吉、明智光秀、丹羽長秀という新たな家臣は武闘派と言うよりは頭脳派の家臣であった
柴田らが多くの犠牲を出して力に頼ったのに対し、この3人に共通するのは根回し、懐柔という調略で戦闘前から裏切り者の味方を使って敵の内部を切り崩すというやり方だ、だから戦闘は最後の仕上げにすぎず、味方の犠牲は最小にとどめた。
もしこの3人が居なければ織田信長は尾張一国の主で終わっただろう、だが信長に才がなかったかと言えばそうではない
信長にはほかの戦国大名と大いに違ったのは現代風に言えば、組織を築き上げる天才だったことだ、
20世紀にわが国では松下、ソニー、ホンダ、トヨタ、京セラなど世界を席巻した企業が出てきたが、戦国時代唯一織田信長は彼らに匹敵する巨大組織を築いたのだ
優秀な人材を見出し、育て、それぞれがもつ才能を最大に伸ばし、惜しみなく財を投入したし、情報収集や研究にも費やした、才ある者には統治を自由に任せて新たな分野を発展させる、
それが平社員や清掃員であっても信長は気を配って才能を探し取り上げた、その代表が秀吉や滝川一益であった。
さらに自身がつねに未知の分野に興味を示し、良いと思われるものは徹底的に分析し研究して採用した
特に日本に来ていたイエズス会やスペイン商人らと積極的に交わり先進文化を取り入れたことが最強の軍事力につながった
そういう積極的な姿勢が人とのつながり、出会いをもたらした
美濃と尾張2国を得たとて、周りには上杉、北条、武田、朝倉、六角、三好、一揆勢など強敵がうごめいていた。
身動きが取れずにいたとき現れたのが足利義昭であった、もしも時代の破壊者が誰かと言えば、信長より足利義昭であっただろう
信長はこの時点では義昭が乗るための名馬でしかなかった、主役は義昭だったのだ
彼には京を三好、松永らの逆臣から取り戻し、滅亡寸前の足利将軍家を再興するという命がけの強烈で明確な目的があった、その執念は当時の信長さえあしもとにも及ばない
そうでなければ義昭は僧侶として念仏三昧のまま生涯を平和に終えたはずだ
義昭こそ稀代の英雄だった、戦国武将だった、己に戦力はなくとも僅かな幕臣と重臣の細川、三淵の兄弟を使い、越前で明智光秀を拾い上げ、売り出し中の織田信長の戦力を利用して見事に足利幕府を再興したのだ
信長に日本統一、畿内統一などという野心はこの時なかった、義昭の出現でジレンマに陥っていた信長に一筋の小道が見えたのだろう。

信長に野心を抱かせたのは間違いなく足利義昭だ、義昭を目の当たりにしたとき(天下人とはこのようなものなのか)と信長は思っただろう
それだけの才を信長は持っていたのだから、才だけではなく武力もあった、それだけなら六角であれ朝倉であれチャンスはあった、だが信長には加えて、組織力、優れた家臣団、好奇心と行動力と豊富な財力、即決主義があった、それが並みの大名との大きな違いであった
天下人の在り方を足利義昭から学んだのだ、神とあがめた天皇すらも目の前に人間として近づいた、その瞬間、信長に天下が見えた。
それは天下を足利義昭と織田信長が争う第一ラウンドの始まりだった。
侵略者織田信長のスタートだった、信長の目を開いたのは皮肉にも信長が生涯敵対することになった足利義昭自身だったのだ。

信長は人遣いの天才だったが、義昭もまた信長に劣らぬ人遣いの天才だった
信長は自前の尾張衆という万余の武力集団を率いていたが、義昭は百あるかないかの幕臣のみだった、そのかわり将軍と言う権威と名声を持っていた
信長の名声や権威に従う大名は皆無であったが、義昭の名に従う大名は全国にいた、あの上杉謙信、武田信玄さえ義昭の名に畏怖しひれ伏したのだ。
信長は結局、圧倒的な武力でしか他を従わせることができなかった、だからこそ比叡山や長島攻めのように徹底した殺戮で他を恐怖で従わせようとした
その点、信長の後を継ぐ秀吉のやり方は、どちらかと言えば義昭に近い。
1573年に足利義昭を京から追放して以来、1582年に信長が死ぬまでの10年間の様々な敵との戦いは、すべて義昭との戦いだったのだ
本願寺、朝倉、毛利、武田、上杉、一揆衆、雑賀、伊賀、比叡山、これらすべてが足利義昭の号令で動いたのは間違いない。
足利義昭が将軍に復帰して京で行政を行ったときも、比叡山や本願寺は5000貫ともいわれる税金を気持ちよく払っていたのだ
それは三好や松永らの乱暴狼藉で荒れ果てた京を安定させてくれたお礼であった、信長も前者のような乱暴狼藉を厳しく取り締まる武将だと、天皇からも褒められるほどたたえられたのだった。
それが、本願寺に立ち退きを求めたことから反目が始まり、やがて義昭が追放されると本願寺と義昭の利害が合致したのだった。