明智光秀は京の常駐を命じられて、朝廷や寺社相手に動いて居た
織田家臣団で一番の教養人と言えば長岡藤孝であろう、そして朝廷相手の一番の外交官と言えば明智光秀だ
この二人の因縁は深い、越前で足利義昭を真ん中に二人は出会った、そして光秀も義昭のために奔走した
やがて二人は義昭を見限って信長の家臣になった、共に信長に重宝されて、今は国持大名になっている
二年前には藤孝の嫡男忠興と、光秀の娘,珠が結婚して二人は親戚になった
両者の縁は深まるばかりである。 藤孝は歌に優れ、その弟子は朝廷にも多い、そんな関係で関白にまで認められて朝廷にも頻繁に出入りし、帝にも目通りを許されて謡ったこともある。
そんなことで、藤孝によって光秀も朝廷の公家衆と面識ができた
ある時、光秀は関白に呼び出された、何事かと緊張して出向いた
「日向守殿、そなたは織田殿の腹心で目をかけられていると聞いたが真であろうか」
「ははー たしかに天主様には何かとご恩をいただいておりまする」
「それそれじゃ、その『天主様』じゃよ、御神(天皇)をもないがしろにするような物言いでおじゃる、御神も憂いておられるのじゃ、あまりにも織田殿が南蛮人に傾倒しておることにな」
「ははー」
「このままでは神武天皇以来続く神国であるこの国が、南蛮教徒に乗っ取られるのではないか、織田殿がその走狗(そうぐ)になるのではないかと危ぶまれておられる、日向殿の息女さえ南蛮教の信徒になられたとか」
細川忠興に嫁いだ珠も熱心なキリスト教徒になっていたのである、それに導いたのは高山右近であった。
「申し訳ありませぬ、某(それがし)の手抜かりでござりまする」
「このまま見過ごすことはできませんぞ、早々に畿内から南蛮人や南蛮教を排除するよう織田殿にそなたから伝えてもらいたい」
「それは・・・」
「できぬと申されるか、そなたは武家と御神、どちらが尊いと思っておるのか」
「もちろん、帝にございます」
「それならば、御神の言葉を信長に伝えよ」
「ははー」
とはいえ、光秀は困った、とんでもない難題である、これより凡そ300年後に、同じようなことが起こるとは光秀が知る由もない
江戸時代の末期の攘夷がそれである、大の異人嫌いの孝明天皇が徳川幕府に攘夷(外国人排斥)を命じて、それが明治維新へと発展していった。
光秀は同じようなことを佐久間が信長に直訴したことで罷免されたことを噂で聞いている、だからとても信長には言えない
光秀は板挟みになって困った、ほおっておいたが、またしても「どうなった」かと催促された、いよいよ窮した光秀は意を決して信長を訪ねた
「いかがした急な用件とは」
信長は退屈気に池を泳ぐ鯉に餌をやっていたが光秀をみると縁側に腰かけて、光秀を招いた、光秀が立っていると
「そなたもかけよ」と促された、互いの顔を見ることができず、池の方を見ながら話すのも気が引けたが
「実は関白様に呼ばれまして」「うむ」
「恐れ多いことでございますが、天主様のことについて『主に伝えよ』と」
「うむ なんじゃ」
光秀は緊張して、生唾を飲み込んでから
「まことに言いにくいのですが、『天子様(帝)と天主様、まことに紛らわしき言い方ゆえ天主様には一歩譲って、天主様の呼び方を控えてもらえぬか』と」
しばし間があった、その間が恐ろしい、たちまち癇癪を起こすことは良くある
信長が口を開いた
「うむ そのようなことであるか、ならば今まで通りお屋形にもどすか」
「ええー?」光秀は絶句した
「ロドリゲスが、そう申すから皆に申したが、儂も天主堂は良いとして、われを天主と言うのは、いささかむず痒い感じがしたのじゃ、帝のおっしゃることには逆らえぬ、光秀、そなたの名前で皆に今のことを伝えよ、明日から儂のことは今まで通り『お屋形』でよいぞ」
「ははぁ、早速にそういたしまする」
「それより光秀、先般筑前を中国方面軍団長に命じたが、そなたにも役を与える、塙直政を山城守護にしておったがあえなく討ち死にして空白になっておった、守護はそのまま空白としておくが、それに等しい役目をそなたに与える、丹波亀山城を居城として、丹波、山城を本貫に大和衆、丹後衆を与力とせよ、戦はそなたが直接たたかう敵はないが、羽柴、柴田、信忠の後詰、そして儂の出陣には大将として与力せよ。 また日頃は洛中の政務を今まで通り続けよ」
「ははあ、ありがたき幸せもったいないお言葉、忠勤いたしまする」
光秀が与えられたのは直轄領2か国50万石、与力大名2か国である、最大動員数は3万になる。
「光秀よ、そなたと秀吉、滝川の近年の働きは抜群である、そなたらが競って働けば、この国の平定が早くなる、儂の気持ちはすでにルソンからタイ、明国へと飛んでいるのじゃ、早く儂に広い世界を見させてほしいものじゃ、励め!」
光秀は追放覚悟で具申したが、あまりにも簡単に信長が受け入れたので驚いた、そのうえ畿内の守護に匹敵する役目まで与えられた
信長に対する忠誠心が深まった、(儂は、このお屋形に命をささげることができる)、秀吉が信長に持っている気持ちと全く同じであった。
秀吉は姫路城に戻っている、黒田官兵衛はかなり回復しているが片足はもはや役に立たない、杖を頼りに歩くしかない
今もまだ都の名医のもとでリハビリ中である、秀吉は半兵衛を失い、官兵衛も傍にいないので話し相手に不自由して退屈していた
そこに、「殿! 秀長さまが見えられました」家臣が伝えた
「おお、秀長、ちょうど退屈していたところじゃ」
「兄者、珍しい御仁をお連れしましたぞ」
「ほう? 誰であろう」
「どうぞ、お入りなされ」秀長が呼びかけると、入ってきたのは山名豊国であった
「これはまた珍しや、さあさ、こちらへどうぞ」
山名豊国は先般、秀吉が進軍した敵方、因幡の鳥取城主であった
豊国は戦わずして、あっさり降参した、秀吉は喜んで「われらにお味方くだされば、この城を接収しませぬ」と言って、豊国に城を安堵して帰国したのだった、その豊国がやって来た。
「面目ござらぬ」と豊国が言った
山名豊国は、かって応仁の大乱の一方の旗頭だった山名宗全の一族である
宗全は中国地方6か国の守護を兼ねた大大名だったが、豊国の時代になると因幡をようやく保つほど落ちぶれていた。
「何と申された?」秀吉は不審におもって聞いた
「兄者、山名さまは鳥取城から逃げてきたのじゃよ」
「なんと!いかがなされた」
「実は、筑前殿が戻られた後、家老たちが儂ににじり寄って『なぜ、織田に降ったのか、長年の毛利様への御恩を忘れたか』と迫り居る、儂は『いまや時勢は織田家に傾いた、お家大事であれば織田家につくことが肝要じゃ』と申したが納得せず、儂を押し込めてでも毛利に味方するという、場合によれば殺される危機も出て来たので、闇夜に紛れて腹心の家来と共に竹田城まで逃げたのでござる、どうか城を取り返していただきますよう、恥ずかしながらやってまいった次第でござる」
秀吉は3月、2万ほどの軍を率いて備中に侵攻した、備前(岡山)の宇喜多勢も共に出陣しているが、総大将の宇喜多直家はいよいよ病が重くなり城中にとどまっている
秀吉は預かっていた嫡男八郎を元服させて、自分の名の一字を与え、宇喜多秀家と名乗らせ、岡山城に帰した。
その時、秀吉は初めて直家の奥方「ふく」に会った
秀吉好みの、ふっくらとした美人であった、まだ30代らしい、直家とはかなり歳が離れている
直家も気が付いたのか、秀吉が見舞いに来るとそっと耳元で言った
「某の命尽きた時は、秀家とふくの面倒を筑前殿に見ていただきたい」
秀吉はドキッとして唾を飲み込んだ
「いかにも、いかにも儂が良きようにいたす、あとのことは心配なさるな、安心して休むがよい」
翌年早くに直家は死んだ、葬儀と49日を済ますと秀吉は秀家を岡山城に残し、ふくは姫路城に住まわせて戦場に疲れると姫路に戻り、しばしの逢瀬を楽しんんだ、現地妻として、ふくは申し分なく秀吉を癒してくれた。
その備中である、備前と備中の国境に近い備中高松城は毛利の国人の中でも勇将として名高い、清水宗治(しみずむねはる)が守っている
立地と兵数、城の堅固さ、宗治の力量と城兵の士気などを推し量ると、この城が容易には落ちないことが一目でわかった
さりとて毛利の本拠地も近く、立地を見れば兵糧攻めも難しい、しばし官兵衛と戦略を練ったが、暇にもしていられないので姫路と備中の間の山道を整備させることにした
ヒントは武田信玄が甲府と信濃の間に作った「棒道」であった、それは今で言えば高速道路で騎馬軍団が並列して駆け抜けることができる規模である。
いずれ信長に出陣を頼むつもりなのである、それと内心、姫路のふくに少しでも早く会えるようにと言う下心もなくはなかったようだ
ところが、道路整備のそれが後日幸いすることになる。
毛利の重臣に安国寺恵瓊(あんこくじえけい)という僧形の武将がいる、主に毛利家の外交を引き受けており、交渉に長けている温和な人である
秀吉は宇喜多直家から安国寺を引き合わせてもらい、以後和平の道を探っているが、毛利には毛利のプライドもあり、なかなか進展しない
毛利三家、毛利元就の長男隆元(元就に先立って病死、子の輝元が継いでいる)毛利本家と次男隆景(たかかげ=小早川家を継ぐ)、三男元春(もとはる=吉川家を継ぐ)は元就の教訓を守り仲良く力を合わせている、特に本家の長男が早世したので、後を継いだ輝元を叔父の二人がしっかり補佐して毛利家を守って来た。
輝元は凡庸だが本家らしい大らかさがある、小早川隆景は心広く人心の掌握に優れて温和な気質である、吉川元春は気性激しく戦闘的だが隆景には頭が上がらない。
因みに今相撲界の人気力士、若隆景、若元春、幕下の長男、若隆元の三兄弟のしこ名は毛利三兄弟からもらったようだ、また大関貴景勝は上杉景勝からもらったらしい(貴景勝が上杉景勝のファンだとかどこかで聞いた気がする)
そんなわけで秀吉はなんとか小早川隆景を掌中にしたいと考えている。
毛利が好戦的でないと言っても、奥に行くほど毛利の抵抗は強まるから早くても5年、下手をすれば10年以上かかる、その間に何が起こるかわからない戦国の世である、できれば平和裏に早く終わらせたいと思っている
毛利と北条が従えば、もはやこの国に織田の敵は居なくなる、そうすれば足利義満以来の統一日本が訪れる。