3月になると信長にとって最高の朗報が入って来た
「なに! 上杉謙信が死んだと? 確かなのか」
「はい 春日山城下、直江の津あたりは大騒ぎでございます」
「そうか それは吉報じゃ、信玄に続いてまたしても大きな荷物が消え去ったか、これで越前、加賀まで一気に攻め込めよう」
ところが、今度は西から凶報が入って来た
「別所長治、謀反でございます」
「なに! いったい何が不満で寝返った? 急ぎ筑前に対処するよう申し付けよ」
まもなく秀吉の軍が別所の三木城を十重二十重に取り囲んだ、これでしばし備前への出陣が遅れることになる
すると、これを見た毛利軍は3万5000に備前の宇喜多軍5000を合わせて北播磨(はりま)に侵攻して去年織田方が落した上月城を取り囲んだ
秀吉もこれを聞いてまずは竹田城の秀長に兵5000を与えて後詰に向かわせた、すでに上月城は毛利の大軍に囲まれていて、5000ではどうにもならない。
北播磨は山の中で、上月城もいくつかの尾根と谷を越えなければたどり着けない、その尾根上に毛利軍は砦や付け城を築いて織田の援軍を寄せ付けない
秀吉にしても手持ちの兵が1万、それに播磨の与力衆を合わせて1万、そのうち5000を秀長に与え、三木城を7000で囲んで、備前に3000を備えると残りは5000しかない
そこで信長にも援軍を求めた、すると信長は4月信忠を大将に2万の援軍を送った
信忠軍は秀吉に兵を与えて、秀吉は2万を率いて上月城に向かった
代わりに信忠は三木城の包囲と姫路城の守備と周辺の敵の城を攻めた
だが秀吉が向かっても毛利の陣は厳重で兵糧すら送り込むことができない
秀吉は信忠に使者を送って上月城救出を要請した、しかし
「上月城より三木城の攻略が優先である、これをほおっておけば備前攻めの障害になる、まずは三木城じゃ、そなたも陣を引き上げてもどってくるように」と話は逆になってしまった
信忠の命令には逆らえない、泣く泣く上月城の尼子を見捨てて戻った
失望した尼子勝久は自害して開城した、ここにかって毛利をしのいだ中国最大の大大名、尼子氏は滅びた
尼子で百人力とうたわれた豪勇の士、忠義の男、山中鹿之助も主に殉じた、秀吉は鹿之助の武勇を知っていただけに「惜しい男を亡くしてしまった」と悔やんだ。
織田方の上月城は4万対2000ほどで兵糧も不足し、約2か月の籠城の末、落城したが、別所氏の三木城は規模も大きく兵も5000を下らないので守りが硬く、しかも兵糧は籠城覚悟で早くから貯えたため、これから2年近く持ちこたえたのである。
7月、上月城が落ちた代わりに、三木城を防禦する支城の中でもっとも手強かった神吉城を織田軍が攻め落とした、これで三木城は完全に孤立してしまった
「殿、悪いことばかりではありませぬぞ」そう言って官兵衛がやってきた
「なんじゃ、えらくご機嫌であるのお」
「今日は良い知らせをもってまいりましたぞ、先般の上月城攻めでは宇喜多が毛利方の与力として参戦しましたが、その中には宇喜多直家はおりませなんだ」
「ふむ、それで」「宇喜多直家と言う男は、毛利が出陣する戦にいなかったことが一度もありませなんだ、それが今回は居なかった、なぜか?それは心がゆれているからに相違ありませぬ、万一の時、織田様に言い訳が立つからです」
「なるほど、それで」
「儂と宇喜多殿は旧知の間柄でござる、なかなかの野心家で主家を替えたことは二度三度ではござりませぬ、もともと浦上家の家臣であったものが、ついにその主家を滅ぼして今の領地を得たのでございます
裏切った相手はかっての上司や主ですが、自分より弱まったのを見定めてから潰しにかかっています、強き者には決して背きませぬ、
宇喜多は殿に属城のいくつかをとられて『羽柴殿にはかなわぬ』と思っておるはず、今は織田家と毛利家の値踏みをしておる最中でしょう、我らとて同じでありましたからな、だからこそ今回は毛利の要請に対して仮病を使って、異母弟の宇喜多忠家を代理の大将として参戦させております
ここで儂が行って一押しすれば、必ずや宇喜多はお味方となりましょう、いかがでございますか、口説きに行ってよろしいでしょうか」
「ふふふ、たいそうな自信じゃのう、お手並み拝見といたそう、頼むぞ」
信長の戦線は拡大するばかりである、織田以外で二正面作戦を敢行している大名は居ない
だが信長は二正面どころか数か所同時に攻めている
秀吉の対毛利、それも備前と但馬.美作の二方面同時、明智光秀は丹波、柴田勝家は北陸、佐久間信盛は本願寺攻め、どの将も小大名以上の軍隊と指揮権を持っている。
そんな最中、信長のもとに越後の騒動の知らせが入った
カリスマ、独断の上杉謙信は生涯妻帯せず子もなかった、そのため魚沼.坂戸城主長尾政景(まさかげ)と謙信の妹の間にできた、長尾景勝(かげかつ)を養子として上杉景勝と名乗らせ、もう一人、小田原北条氏康と和睦に当たり、その息子を人質に受けたが、それを人質とせず養子にしてしまい、上杉景虎と名付けた。
だからこの二人が謙信亡き後に跡目相続の身内争いに発展した。
小田原北条氏の当主、北条氏政の弟である景虎の方が断然優位であった、北条にしてみれば越後を奪うチャンスがおとずれたのだ。
北条は同盟していた武田勝頼にも越後出陣を促した、織田との戦いに負けた勝頼にとって越後を切り取れば久しぶりのポイント獲得になる、兵を出した
景勝にとって唯一優位だったのは本城である、堅城春日山城をいち早く占拠したことである、しかたなく景虎方は浜辺の今の直江津で御館(元関東管領上杉憲政の屋敷として謙信が建てた館)を本拠とした。
それと名参謀として名をはせた直江兼続(なおえかねつぐ)が景勝についていたことである。
起死回生の一発は兼続が行動を起こした、迫りくる武田勝頼の軍に走って交渉した、黄金を差し出し、越後西浜(糸魚川から直江津の間)の上杉の城数か所も武田に割譲した
そのため勝頼は北条に相談せず兵を引き上げた
北条も関東の戦に忙しく、景虎を救援できず、反撃に転じた景勝軍はついに上越国境(新潟県湯沢周辺~群馬県、水上.沼田周辺)辺りで追い詰めた景虎を討ち取って勝利した。
だが越後上杉氏の力は半減してしまった、いわば同士討ちなのだから当然のことである、しかも下越地方(新発田市以北)の土豪は臣従していない
これを機に秋には信長は加賀の柴田勝家のほか、飛騨側からも別動隊を越中(富山)の上杉軍の攻撃に派遣した。
しかし、越後軍は強く結局、越中を攻略できなかった、勝家に対する信長の評価は下がった。
一方同じころ、明智光秀は丹波の波多野一族と激戦の末、ついに本拠八上城を落した、さらに丹後の一色氏を攻めた。
しかし光秀は攻めあぐみ、名族一色氏も一目置く元幕臣で文化教養人で、かつ武将の長岡藤孝(信長に仕えてから細川を長岡に改めた)を使者として懐柔すると、ついに織田に下った
信長は二人の手柄を褒めたたえ、明智に丹波27万石を、長岡に丹後11万石を与えた。
一方、秀吉は兵数が多い別所の三木城は信長の命もあって囲むだけで無理攻めをせず兵糧攻めを徹底した、長島攻めで信長が使った手である。
これを三木の干殺しという
ところがここを包囲している間に痛恨の出来事が起きた。