信長に助けを求めた秀吉はただちに小六の古い家来に駿河から遠州を探らせた
すると意外なことが分かった、松下嘉兵衛は徳川が遠江侵攻の時、寄り親の飯尾氏が徳川に降ったため嘉兵衛も従ったが、飯尾氏が今川に殺されたので、嘉兵衛はわずか25貫の低い身分で徳川家に仕えていた。
秀吉はこれを信長に伝えた、すると信長は「わしが三河(徳川家康)に頼んで松下をもらい受けるから、そなたは松下に1000貫与えて家臣にするのだ、そして、ふじとやらを松下の養女にして、改めてそなたの側室とするがよい、1000石どりならば羽柴の側室には不足あるまい、若松丸は、ねねの子として育てよ、いずれ儂が烏帽子親として元服させよう」
秀吉は信長からの破格の扱いに感激した、感激しておいおいと泣き出したから、信長も驚いて「たわけ、このようなところで泣くな」
元今川家に仕えていた松下嘉兵衛は今川義元が桶狭間で織田軍に討たれてからと言うもの運は下がるばかりであった。
あとを継いだ今川氏真が頼りなく、義元の仇討の兵を挙げることなく相変わらず蹴鞠や和歌に興じたので、気概ある家臣の多くが今川家を見限った
とくに遠江の土豪の離反は顕著で徳川家康に乗り換えるものが続々出てきた
後に徳川家康の四天王の一人に数えられる井伊直政の井伊家は親世代の時に今川を離れ徳川家康に仕えた
同じように松下嘉兵衛が仕えた浜松の飯尾氏(今川家の重臣)も密かに徳川に着こうとしたが見破られて殺された、それで松下嘉兵衛も浪々の身となり、今川家が滅んでから徳川家に仕官した
かって家康は人質という形ではあったが、今川の武将の一人であったから今川家を離れた者たちを積極的に採用した。
嘉兵衛は今川家では、小さいながらも一城の主として数十人の武士を率いていたが徳川家では小者数人だけの下級武士になり下がった。
それも武田軍との最前線の城の守備に充てられていたのだった、夢も希望もないお先真っ暗な気分であった、ところが突然上司から「織田家の重臣、羽柴筑前守殿のところに使いに行くように」という命令が出たのだった。
なぜ新参者の微禄な男に、こんな役が来たのか不思議であった、だが命令である、キツネにつままれた面持ちで岐阜城下に向かった。
羽柴筑前守とはどういう武将なのであろうか、自分が今川家にいた頃には織田家の家臣の中にはいなかったはずだ
秀吉の岐阜の屋敷を訪ねた、応接の座敷の隅で神妙に待っていると、上座に秀吉らしき人物が小姓と入ってきた。
「面を上げなされ」、わずかに顔を上げてちらりと見た、もちろん初めて見る顔であった
「もっとこちらに来られよ」「はは!」二三歩前に正座のまま擦り寄った
「まだるいのお」そう言うと秀吉は上段から降りて近づき、しかも目の前に座った、嘉兵衛は手討ちにされるのではないかと背筋が凍った。
「何を緊張されておる、顔を上げて儂の顔をしっかり見なされ」
「はは!」何が何だかわからない、なぜか怖いのである、顔など上げられない
「これ!松下殿!、見られよ儂の顔を」「ははー」
ようやく顔を上げた、そして見たがわからない、わかるはずがない初対面だ
「わかりませぬか儂が」「申し訳ありません」またかしこまった
「ええい、まだるい、儂は藤吉郎でござる」
「藤吉郎と申されると? 昔、同じ名前の者は記憶にありますが」
「その藤吉郎でござるよ、今一度顔を上げて見られよ」
「まさか! あの時の藤吉郎は明智光秀の使いで来た小者でありました」
「その小者が儂よ、松下殿、藤吉郎を覚えておられただけで儂は嬉しい」
「本当に羽柴様が秀吉様・・・いえ藤吉郎殿で?」
「その通りでござる、いろいろあったがあれから織田様に仕えて、運よく出世を重ねて今は織田上総の介様より長浜で21万石をいただいておりまする、今思えば別れの時に松下殿が儂に下された餞別が21万石の種銭であった」
「ははー、それは信じられるようなご出世で、ええー?、なにがなんだかわかりませぬが、いったいそんな大身のお方が儂などになんの御用で呼び出されたのでしょうか」
「松下殿には、徳川家を離れて儂の家臣になってもらいたいのです」
「? はは、それは徳川様が良いと申せば儂に異存などありませぬ」
「それでは決まりじゃ、もう三河殿には話がついております」
「ははあ、足軽でもなんでも言われるままにお仕えいたしまする」
「それでは松下殿には儂の息子、若松丸の守役をお願いいたします」
「なんと、儂が若君の守役でございますか?」
「待遇は家宰の一人として禄は1000石を」
「せ・・・せんごくと!、徳川家では25石でしたが」
「命の恩人に1000石でも少なすぎますが、当座はこれでお願いいたす」
「とんでもございませぬ、もったいないもったいない、ありがとうございまする、駿府から家族も呼び寄せることができます、何とありがたいことか、何十年も前の些細なことを覚えておいでだったとは、ありがたやありがたや」嘉兵衛の目に涙が光った
「若松丸だけでなく、母御の駿河の方の侍者の取締役もお願いいたします」
「ははあ、この身を砕いてでもお役目果たしまする」
「おお、一番大事なことを忘れるところであった、松下殿は駿河の養父と言うことになりますのでお忘れなく、近々家臣たちの面前にて松下殿を紹介して、駿河の義父であることを知らせますゆえ、そのようにお覚悟を決めていただきたい」
「なんと!今日の出来事は夢でありますまいか」
「なあに、それもこれも20年前の儂への慈悲が始まりでござる、善意には報いませぬとなあ」
「ああ~、ありがたや、ありがたや、神も仏もやはりありました」
信長のとりなしもあって、ねねは複雑な思いのまま、ふじと若松丸を城に迎いれた、若松丸は数えで6歳になっていた
ふじも晴れて公の側室となり、名前も「駿河(するが)の方」と呼ばれて「駿河ぐるわ」と名付けられた城内の屋敷に住んだ。
ねねも奥方様と呼ばれるようになり、ナカは大奥様となった。
21万石ともなると5000人からの家臣を召し抱えることになる、新規採用をしなければとても足りない。
秀吉は兄弟親戚につながる血縁からまず採用を始めた、さらに近江で浪人している者、地域で優秀と思われる子供や青年も集めた。
その中には後の加藤清正、福島正則、石田三成、加藤義明、片桐且元となる少年、青年たちもいた。
清正と正則は、秀吉と同郷の尾張出身で秀吉と親戚である、石田三成は近江の天才少年だった、家柄も良い
且元は浅井家の旧臣、加藤は親が三河武士であったが家康と対立して浪人していたのだ。
加藤清正はこのとき虎之助、福島正則は市松という、二人とも秀吉の親戚であったから二人が来たのはナカが一番喜んだ、子がいない、ねねも息子が一度に二人できたと喜んだ、そして二人もナカを祖母、ねねを母のように慕った。