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空想歴史ドラマ 貧乏太閤記56 長島一揆殲滅

2022年11月07日 17時51分27秒 | 貧乏太閤記
どの大名も本当か噂かを見極めようと乱破(間者)を信州、駿河、甲州に潜り込ませた。
国境を接する徳川家康は最前線の武田領に兵を出してみたが、援軍が来る様子はなかったのでやはり怪しいという思いが高まった。
しかし、天正2年早々には美濃の明知城に武田軍が攻め込み、これを織田家から奪った、更に5月には1万の兵を率いて徳川方の堅城高天神城を落して占領した、これでまた信玄の生死はわからなくなった、武田軍健在の報は信長にも届いた、結局武田の動きが不気味で一揆に占領された越前に信長は兵を出すことができなくなった
これに呼応して摂津では本願寺がまた騒ぎ出した、本願寺の呼びかけで池田勝正、雑賀孫一なども摂津の織田方を攻めた
信長は相変わらず動けず、松永に代えた大和守護筒井順慶など外様衆を送って河内高屋城を攻めさせた、その結果、高屋城の城主遊佐を討ち取った
同時に柴田ら重臣の一部を本願寺の牽制に送ったが、とりあえず騒乱を抑えるにとどまった。

だが信玄無き武田家中は大荒れであった、信玄に長年仕えた山県、馬場などの老臣は勝頼の進軍に反対したが、勝頼は聞く耳を持たず出陣したのである。
信玄の遺言を一年で破棄した勝頼に老臣たちは絶望落胆した、これで武田家の鉄の結束にひびが入った
こんな風に武田家中が分裂したので隠してきた信玄の死も6月にはついに全国に知れ渡ることとなった

これに元気を得た信長は直ちに諸将を集めて次の手を打った
「夏には恨み重なる伊勢長島の一揆勢を殲滅する、二度にわたって手痛い目にあわされたが、今度こそは一人残らず根絶やしにするつもりじゃ、長島にいる者は女子供も容赦なく殺せ、門徒などと言うが、洛中の門徒とは違い、奴らは法も恐れぬ逆徒である!」
「はは~~」延暦寺焼き討ちを経験した織田家中の者たちは、もはや門徒殺しなど気にもならなくなったようだ
「越前は長島のあとじゃ、それまでは国境をしっかり固めよ、羽柴秀吉にこれを命ずる、ただ守るのではないぞ、攻め入るときのために今から丹後、若狭の船を確保しておけ」
「美濃の武田勢には河尻、池田恒興があたるように、武田を一歩たりともわが領内に入れるな、岐阜城代は明智光秀に任せる、此度は儂は当然ながら信忠も一門衆を率いて出陣する、こんどこそ一発で一揆を仕留めるぞ」
「滝川一益は鳥羽に走って九鬼水軍を率いて南口より攻め寄せよ、海上封鎖して援軍を近づけるな、河口より逃げ出す敵はことごとく切り殺せ」
「おー---!」居並ぶ重臣たちも信長の火のような決意に緊張した面持ちになった、武田信玄と言う重しが外れて信長もいよいよやる気が起きたのだ。

天正2年(1574)7月、織田信長は織田信忠と共に岐阜を発った
近江からも各部隊が合流して長島の手前、津島湊に集結した、その数は6万にも及ぶ、このほかにも鳥羽からは滝川が率いる九鬼水軍、桑名湊からは北畠信雄が率いる伊勢水軍、さらに知多の津からも続々と水軍が長島沖を埋め尽くしたから蟻の這い出る隙もない
陸から攻めるには難しいので、網の目のようになっている水路を小さな疾風船で攻めあがるしかない。
過去二回の失敗を元に徹底した水路からの攻撃、そして敵の船足を止めて各洲にある砦や城を攻め落としていく、大軍を見た長島の洲から離れている敵は戦わずに織田軍に降った
織田軍は東、西、北から本隊が、南には水軍が長島を取り囲んだ、だが今回は攻め込まない、長島に住む4万とも5万ともいう門徒百姓や僧兵、武者たち、それを兵糧攻めにしようというのだ
9月に入っても手を緩めず取り囲んだままである、ついに一揆側の糧食は尽きた、もはや我慢の限界にきている
「われらは降参する、長島を捨てて散る故命の保証だけをしてもらいたい」
前線の武将に申し出た、信長に伝えると海への通路を数本だけ開ける故、そこを小舟で出ていくこと、武器や家具類は一切持たず空身で出ていくこと」と返事をした。
やせ細った人々が次々と船に乗って長島の水路を南に向かっていく、真ん中あたりの数十艘には屈強な男たちが小刀だけを脇に挟んで乗っている
水路は小舟で埋まった、その時、水路の左右から一斉に鉄砲が火を噴いた、その数1000挺にも及ぶ、たちまち小舟から人々が水路に落ちた、落ちたものまでも撃たれている、水路は瞬く間に血に染まった
数千数百の人間が撃ち殺された、ほとんどがここで暮らしてきた農民信徒の男女である、それでも船は続いてやってくる
織田軍のだまし討ちに気づいた屈強な兵士や僧兵は武器を手に鉄砲隊に切り込んでいった、まさかに備えた凡そ1000名ほどの決死隊である
あの世こそ極楽、この世は地獄と信じる信徒は死を恐れない、むしろ召されることを喜びとするから強い、
強すぎる、織田兵は次々と討たれた、足軽ばかりではない将も討たれた戦後確認すると信長の一門衆や旗本だけでも10名近くが討ち死にした
叔父の織田信次、兄弟では織田信広、秀成、従弟の信成らも討ち死にした
織田信次は、お市母娘を預かっていた守山城主である
ものすごい門徒宗の気迫であった、しかし多勢に無勢、抵抗は終わった
まだ島には乗り遅れた2万もの信徒たちが残されていた、抵抗できないような者ばかりが残った。 
信長はそれらを中央部のいくつかの洲に集めて周りに大きな柵を作って閉じ込めた、そしてなんと一斉に火を放った
2万の人間は一人残らず焼き殺された、その強烈な臭いと叫び声、鳴き声、南無阿弥陀仏の声、心ある多くの織田軍の兵士も心の中で泣き叫んだ。
無抵抗のユダヤ人600万人を毒ガスで殺したヒットラーが、織田信長の生まれ変わりではないかと言う人もいる、まさにこの二人の残虐性は共通している、ただ歴史は今日にいたるまでこの二人に負けない残虐な独裁者を何人も生み出している、民主主義の中にも大量虐殺を是とする者がいる。
こうして伊勢長島の一揆は4万人も虐殺されて終わった。
だが信長の中ではまだ終わっていない、今度は越前の一揆勢を皆殺しにするつもりで、すでに頭の中で作戦が動き出している。




 




夕暮れ河川敷 2

2022年11月07日 08時38分04秒 | 散歩道
カメラが衰えたのか、自分の目が老化したのか?
この頃ピント合わせに時間がかかるようになった、デジタルで数字が出るならわかりやすいが手動は感覚なので微妙だ
でもおかげで歩みが遅くなって、その場所に長く居ることができるようになった
「急がない時間」これも今までには無かったことだ
毎日毎日、背中を押されていた あの気持ちは今はない
河川敷をゆったり歩きながら、それを思った




帰巣





夕暮れの忘れ物