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空想歴史ドラマ 貧乏太閤記58 設楽原の大戦

2022年11月09日 18時51分26秒 | 貧乏太閤記
常に心の中で勝頼は老臣たちと戦っている、目の前の信長と言う敵より、味方のはずの老臣との戦いに心の半分が費やされて疲労が激しい。
老臣たちは老臣たちで、信玄のもとで働いたときは(お屋形様に自分の良いところ、強さを見てもらいたい)という功名心に奮い立ち、信玄が一言「進め」という命令を出すだけであとは自ら考え、自分の采配で敵陣に突入して殲滅した。 だが勝頼の元ではそんな奮い立つ気力が一向に起こらない、急に自分たちが年老いたような気分になってしまう。
そんな雰囲気に気づいたのは三方ヶ原で直接信玄の大軍と戦った経験がある家康であった、(あの時の恐ろしい武田軍の迫力がまったく感じられない)なぜか緩い春風が武田軍に吹いているように思える、あるいは冬まじかの悲しい秋風にも感じる。(これは勝てるかもしれない)リアルにそう感じた。
家康は自ら信長の陣に出向いた「織田様、武田軍はかっての勢いがありませぬ、これは責任をもって断言できます、しかし正面対決してはやはりかないませぬ故、策をもって主力の敵の騎馬隊を引っ張り出して、鉄砲で仕留めれば勝てます」
「あいわかった、策を考えてみよう」
その時、武田勝頼の本陣の裏山、すなわち鳶の巣山で銃声が鳴り響いた、それからわずか30分ほどでのろしが上がった
それは酒井の部隊が鳶の巣山砦を占領した合図だった、このとき武田の鳶の巣守備隊の守将の武田信実が武田軍大将で最初戦死者となった
連合軍は柵の中で一斉に勝どきをあげた、それは天にも届くような大歓声であった。
武田軍はたじろいだ、後方の鳶の巣砦が占領されて大将の武田信実が首を取られたと敗残兵から聞いたからだ
占領した徳川軍3000がそのまま山を下って長篠城の救援に向かったという、それに呼応して長篠城からも奥平勢が取り囲む武田軍に攻撃を仕掛けた、おじけづいた武田軍は長篠城の包囲を解いて設楽原目指して逃げ出した
武田軍に危機が迫っている。

「御大将殿、これまででござる、長篠攻略はあきらめていったん駿府まで引きましょう」馬場美濃守が勝頼に言った
「それが良いかと思いまする、駿府にて援軍を待ち立て直しましょう」山県昌景も同調した、二人は信玄の左右の腕として信濃攻略に貢献した宿老である。
「それはならぬ、織田がいくら大軍でもあの通り、われらを恐れて亀のように引っ込んだままじゃ、一気に騎馬で突入して柵をこじ開けて敵陣に入れば勝ったも同然じゃ」勝頼は自信ありげに言った。
「それは無理でござる、あのような堅固な柵が幾重にも巡らされ、しかも鉄砲は1500挺は下りませぬ、あれを放たれれば50間以内ならたちまち命中いたしましょう、しかもこの土地は荒れ地の上に沼地、柵の前には川が流れ土手もありまする、偵察によれば川と柵の間にも浅い空堀が切られているとのこと」
侍大将の内藤昌豊も勝頼に提言した。
「ええーい、その方らは大軍を見て臆したか」勝頼は怒声を放った
「そうではありませぬ、今は勝機ではないと申して居る、敵の布陣は万全でござる、数も我らの数倍はあるし、背後からも敵がせまっておりまするぞ」
老臣の言葉に勝頼はますます冷静を失って
「おのれ、そなたたちは信玄公の言うことは聞けても、儂の命には従えぬと申すのか、それならば後方に下がって、この勝頼の戦を見ておるがよい」
癇癪筋を色白の細面の額に立てた勝頼、目が吊り上がっている
武田勝頼、信玄の遺言で「家督を孫の太郎に、そして勝頼は太郎の成人まで後見せよ」と言った、その意味を勝頼は今ここで感じている、それは屈辱でしかない、(信玄以来仕えてきた老臣や侍大将はみな儂を見下して居る)悔しさに歯噛みした。
なぜか、それは勝頼の母が甲州人ではなく、信濃の人間だからだ
信濃は信玄に征服された土地であり、勝頼の母は信玄に滅ぼされた諏訪氏の姫であった、いわば戦利品として凌辱された母から生まれた副産物でしかないのだと。 その出自が常に勝頼の劣等感になっていた。
(甲州侍はまぎれない信玄の子である儂を武田の後継者と思ったことなどないのだ)いつもそれを感じる、いまもそうだ、こうなったら自ら強さを見せつけるしかない、それが馬場たちへの痛烈な言葉になった。

馬場と山県、内藤は顔を見合わせて笑った
「われらの戦も今日が最後じゃな、あの世で待つお屋形様のもとに行こうではないか、もはやわれらの主家の滅亡は目に見えた、いかがかな」
馬場がそう言うと、残る二人もうなづいて「いかにも今日が門出でござる」
そして山県が勝頼の面前に向かって「総大将のお話は、ごもっともでござる、真っ先に総大将を走らせたとあらば、われらは末代まで恥を晒すことになります、まずはわれらが甲州武士の戦を信長に見せましょう」
「わかればよい、総攻撃じゃ」
そして午後1時過ぎから4陣10頭の軍が相次いで連合軍の柵めがけて突撃を開始した、連合軍は鉄砲を撃ちかけ、武田軍が引くと連合軍の騎馬が追い打ちをかけ、新手が攻め寄せると柵内に戻り、また鉄砲、弓矢を射かけるという繰り返しだった、馬が動けない柵外では足軽同士の槍合わせが行われている
次第に武田軍は兵が減っていった、連合軍の戦死1に対して武田軍の戦死は2くらいの割合であった、劣勢の中でも積極的に攻め込む武田軍は互角の戦いと言って良いだろう、勇敢に武田軍は何度も波状攻撃を仕掛け、多くの犠牲をかけてついに中央部の柵をこじ開けた
「いまだ、あそこから一気に攻め込め」最初に山県隊、馬場隊の騎馬を先頭に足軽まで全員が押し倒された連合軍の柵を目指して突撃した
甲州武士でも一二を争う勇将、山県昌景、馬場信房が真っ先に柵の中に飛び込んで右に左に敵を倒していく、次の柵に向かった刹那鉄砲が集中して二人は落馬して戦死した
それでも家来たちはさらに奥の柵を目指して突撃した、そのため強固な柵が少しずつ倒されて次の攻撃の目標になった
続いて第二陣、内藤、原隊が突撃を開始した、キリのように馬場隊らがこじ開けた穴をさらに深く広げようと中央部の一点に集中した、守る側もそこに集中して鉄砲を討つから、たちまち武田軍の屍がこの平原を埋め尽くした、だが柵内に飛び込んだ兵は連合軍に勝っている、阿修羅の働きで織田兵を倒していく
だが内藤、原も戦死、続いて土屋隊、真田隊が突撃、柵内にまで深く入り込み連合軍の兵を圧倒する働きを見せたが真田兄弟、土屋昌次も戦死
いよいよ武田軍の敗色が濃くなった、ここに至ってさすがの勝頼もそれを認めざるを得なくなった、すでに戦闘が始まって8時間にもなる
甘利、高坂の侍大将が、武田家の親類衆の取り締まりである穴山梅雪の陣を訪れた 「穴山殿、もはやこれまででござる、われらが殿軍として最後の突入をして時を稼ぎますから、残りの諸将は兵をかき集めて穴山殿の駿州の居城までお引きくだされ」
「しかし」「もはや問答の時はありませぬ、一刻も早く勝頼殿を安全なところまで退かせてくだされ」
「あいわかった、しかし命を粗末にせず後から駿府まで追いついてくだされ」「わかり申した、ではごめん」
武田勝頼はついに説得されて叔父の武田信廉、穴山信君(梅雪)、親類衆の小山田信茂、侍大将の小幡らと敗走を始めた
連合軍に攻め込んだ甘利信康、高坂昌澄は言った通り、無理攻めせずに時を稼ぎながらも次第に兵は減っていった、そしてこの二将もまた戦死した。

逃げ戦は攻めるときよりも難しい、武田軍の敗残兵は追ってくる織田、徳川軍に討ち取られていく、勝頼も馬廻りの数百がいるだけで、他の兵はどこにいるやもしれぬ状況であった。
ようやく遠江の徳川領を超えると駿府からの援軍がやってきて息をついた
戦後犠牲者を数えてみると8000~1万が戦死していた、出発した時の半数が戦死と言う大敗であった、侍大将だけで10人ほど討たれたのだから大きな痛手となった。 だが織田、徳川連合軍もあれだけ優勢な戦をして勝利者となったが5000人もの戦死者を出していたのである、いかに武田軍が強かったのかわかる。