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神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 75 光秀絶頂の時

2022年11月26日 17時56分15秒 | 貧乏太閤記
 時間を戻して、この天正9年1月には信長は安土の城下にて左義長(さぎちょう=火祭り、どんど焼きの行事)をにぎやかに開催して城下の民を大いに喜ばせた
この時の馬行列がことのほか評判が良かったので、信長は喜び、京の都で大々的に「馬揃え」を開催することに決めた
そして洛中(らくちゅう=京都)および畿内(京都、奈良、大阪)を任されている明智光秀にこの大役を任せた、いわば実行委員長だ
大変な名誉で、光秀は信長に信頼されている喜びを感じて大いに張り切った
「馬揃え」とは現代の軍事パレードであり、また参加する武士たちにとっては晴れ舞台で、普段目立たない者にとっては信長の目に留まるチャンスでもあった。
そのため、より目立つ立派な馬を求める武士も多かった。 
山内一豊と、その妻、千代の話の盛り上がりの一つがこの「馬揃え」
信長の馬廻り衆の一人でしかなかったうだつの上がらない武士、山内一豊は城下で素晴らしい名馬を目にしたが、貧しくて買うことができない
ため息ばかりついているので、千代がわけを聞くと「こうこうこう」であった
すると千代は奥から箱を持ってきて一豊の前に置いた
一豊が明けてみると名馬を買うに不足ない小判が入っていた
驚いて千代に問うと「嫁ぐときに実家が『旦那様の危急の時に使いなさい』と言って持たせてくれた金子です、今がその時ですから、どうぞお気に入りの馬を買って、立派な武者ぶりをお屋形様にお見せなさい」
一豊は飛び跳ねて馬を買いに行った、そして馬揃えに、その馬に乗って行列に加わると馬に目がない信長がすぐに目を止めて「あれは誰じゃ」と聞いた
そうして目にもかけられなかった山内一豊は一躍、信長の知るところとなった
それが出世の糸口で、信長から目をかけられ、その後は秀吉に従って活躍を重ねて掛川5万石の大名となった、更に家康に仕えて関ヶ原の後に土佐一国20万石を与えられた。
実話かどうか?だが、いかに武士にとって大事な行事であったかがわかって面白い。
 この馬揃えでは信長は御所を中心に開催したので、「ぜひ見てみたい」という正親町天皇(おおぎまち)と親王もお招きした、御座所を設けて楽しんでいただいた。
観衆は20万人にも及んだと言われる、参加した武士も数万人もいたという、その一番には実行委員長の光秀が先導して、丹羽長秀、信長の息子たち、親戚一門が並び、柴田勝家などの重臣、それから近衛前久を先頭に公家衆もパレードに参加した、信長は最後尾に登場して派手な衣装で観衆を驚かせた
このパレードは大成功で日本中にその様子は知れ渡り、信長の名声は高まり
戦国終盤のライバルたちに無力感を与えた、遠く薩摩の島津さえ誼を(よしみ)を求めて来た。
明智光秀、柴田勝家ら秀吉のライバルも大いに面目を施したが、秀吉だけは遠く中国で戦準備に明け暮れて参加できず悔しがった。
帝(天皇)の喜びはひとしおで、自分を招き喜ばせてくれたことに大いに満足した、信長と天皇の関係は良い方向で深まったのである。

「明智日向守(ひゅうがのかみ)、此度の馬揃えの成功は、ひとえにそなたの働きがあったからからじゃ、褒美にこの馬をとらす」
黒鹿毛の堂々とした駿馬である、何より信長自身から与えられたことに大きな価値がある、先般のことと言い、このまわりの出来事は夢のようである。
(儂は今や、お屋形様の一の家臣として認められた)自然と笑みがこぼれてくる
「日向、此度は帝も親王殿下もことのほか喜ばれてなあ、この儂に『右府よ(うふ=右大臣)、天下第一のあっぱれ、武家の頭領に匹敵する武者ぶりである』とお言葉をいただいた、武家としての面目大いにたったぞ」
「それはまことにおめでとうございまする、某もお役に立ててこれほどの喜びはありませぬ」
「それだけではないぞ、朝廷、門外不出と言われる南都の幻の香木「蘭奢待(らんじゃたい)」を帝が自ら削り取って、この儂に下賜されたのだ、武家始まって以来の名誉である、これもそなたの働きであるぞ」
「はあぁあ、もったいないお言葉にござります」
確かに、信長はこの時点で光秀を織田家第一の功労者であると認識したのである、それは佐久間信盛を追放して空いた家臣第一位の席に光秀を座らせようという信長の意思であったかもしれない。
しかも今度のことで関白近衛前久とのパイプも太く繋がり、朝廷のつなぎは光秀が居なくてはつながらないほどに力を持った
信長と関白=帝へのパイプをもった光秀に公家や畿内の商人、武士たちまでもがご機嫌伺いや貢物を送るようになった、光秀は大きな力を持とうとしている
  光秀が交渉を任されて、すでに臣従を誓った四国の長曾我部元親を「信長が、攻めようとしている」という噂も聞いたが(なにかの間違いであろう)と
気にも留めていない、現状を見れば光秀の嫌がることをするはずがないからだ

この年の織田軍の進出は目覚ましい
北陸では初夏には柴田軍団が富山城を落し、佐々成政を領主とし、上杉軍を魚津以北に追いやって、謙信亡き後の越後を伺っている。
また能登の七尾城の遊佐を下し、ここを占拠して前田利家が領主となった
すでに越前、加賀、能登、越中の一揆も駆逐した

天正10年2月
「越後の上杉も風前の灯火じゃ、毛利も秀吉が備中を攻めてほどなくわれらに降るであろう、毛利は武田のように愚かではあるまい。
いよいよ武田勝頼に引導を渡すぞ、すでに武田の婿である木曽と、駿河の武田の重鎮の穴山梅雪が内応しておる」
信長が宣言したころ、武田勝頼は甲斐府中を発って裏切った親戚の木曽義昌を成敗すべく8000を率いて出陣した。
しかしすでに木曽には織田の先発隊が応援として合流していた、しかも本隊の織田信忠が8万とも10万ともいう大軍で木曽方面に向かっているという

信忠の大軍が信濃に入ったころ、信長も3万の兵を率いて、半月遅れで信忠の後を追った
その中には丹波衆、山城衆を率いる光秀の姿もあった
「日向守よ、そなたがこの軍の副将じゃ、信忠が討ち漏らした敵を存分に叩きのめすがよいぞ」
光秀はまたしても感激した、滝川一益も加わっているこの軍団で、彼を差し置いて副将を命じられたのである、明らかに滝川を超えた地位にあると認識した。

 さすがに向こう見ずな武田勝頼も織田の大軍来るの報に、これには勝てぬと甲府に向かって引き上げた
ところが駿河口からは、徳川軍が勝頼の叔父の穴山梅雪を案内として甲斐に侵入しようとしているという知らせが入った
こんな時に備えて、甲府の手前の韮山に巨大な新府城を建設していたが、あまりにも織田の侵攻が早くて間に合わなかった
今まで一度も甲斐国内に敵が侵入しなかった強さが裏目になって、攻められるとあまりにも脆い武田家であった
しかも頼りにしていた奥方の実家、北条家とは越後の御館の乱で敵対してしまった、それも勝頼が勝手に上杉景勝と和睦したからだった
だから北条は助けるどころか、おこぼれを貰おうと国境近くまで兵を進めてきたのだ。




温かな陽気に誘われて

2022年11月26日 09時05分34秒 | 散歩道
夏以後、ずっと菜食になって、野菜ばかり食べている
だが、さすがに肉を食べたくなって、昨日は久しぶりに「ロースとんかつ定食」
ほとんど外食もしなくなり、スーパーで買った魚や食材で自炊状態だが、とんかつとなると手間もかかるし、道具も家庭用でプロの揚げ方が難しい。
昨日の「とんかつ」外がパリパリ、衣も厚すぎず、肉もしっとりした甘みがあって、揚げ加減も絶妙だった。
食事を終えたが、天気が良すぎるので、食後の散歩
いつも行く川からは15kmくらい離れた別の川の土手を歩いてみた、ずっと行くとこのまま15kmくらいは行くので、片道2.5kmくらいを往復して戻った
のどかな谷間の田園風景、大根、キャベツ、白菜など収穫する人もパラパラ
これからは晴れの日が貴重になってくる。






スマホ写真