昨年、織田軍は連敗続きであった、毛利水軍に完膚なきまでに織田水軍は叩きのめされ大坂湾の制海権を握られた
そのため、反織田の諸大名は自由に本願寺との往来をおこなった
これでは本願寺の兵糧攻めなどできるわけがない、紀州(和歌山)の雑賀衆までもが信長に反旗を翻し対抗してきた、これではいつ摂津、和泉の国人土豪も反乱するかわからない
信長は伊勢から紀州にかけて詳しい滝川一益を呼び、雑賀衆の懐柔を命じた
そのかいあって、一益は見事に雑賀の主力の一つである根来衆の寝返りを成功させた「此度の滝川一益の働きは比類なきものである」信長は家臣の揃った前で滝川を絶賛した
「根来衆を案内にして雑賀を攻め滅ぼす」信長はいきりたった、総勢8万の大軍で雑賀に向かった。もちろん海上からも万余の水軍がこれを援助する
およそ1か月半かかったが、ようやく雑賀が和睦を求めて来た、信長も長島などでおこなった皆殺しは雑賀には不可能と身に染みた
結局、痛み分けであったが、雑賀の反乱は収まった、ここが鎮まれば再び本願寺攻めに集中できる。
本願寺攻めは佐久間信盛が担当しているが攻めあぐんですでに三年、一向に進展がない、だが信長は焦る様子もなく無視している
武田、浅井、浅倉、本願寺、六角に一揆衆を同時に敵にしていたころを思えば今は平穏な日々だ
信長もいささか疲れた、それに最近は嫡男の織田信忠が逞しくなって、一軍の士気をとることも多くなった、後継者に不足はない
信忠の実弟、信雄も北畠に養子に行った後、北畠の主を謀殺して乗っ取ってからまた織田に姓を戻した
また信雄と同年齢の庶弟、織田信孝も同様に神戸家を乗っ取り、神戸信孝と名乗っている、信長にはこのように3人の成人した息子がそれぞれに軍団を率いて頼もしい限りである、信長も戦に明け暮れるうちに45歳になっていた
本願寺と信長の戦は、膠着状態に陥っていた
本願寺はびっしりと織田軍に取り囲まれていたが、制海権を握った毛利や雑賀からの物資輸送で長島一揆とは違い何一つ不自由がなかった
本願寺も手詰まりを解消すべく手を打った
武田信玄亡き後、唯一となったレジェンド、「越後の龍」上杉謙信と和睦したのだ、それにより加賀一揆も上杉と和睦した
そして越前一揆討伐を信長が目論んでいるのを知ると上杉謙信の出馬を願った。 上杉はすでに越中を平定して魚津、富山まで支配していたので残る敵は能登七尾城の畠山だけである。
7月、謙信は越後春日山城を20000の兵力で発った
武田騎馬軍団が「疾風無敵の軍団」であれば、上杉の越後軍は「静かなる神兵」と呼ばれるように、上杉謙信ただ一人の神がかりのカリスマが先頭に立って突撃するとたちまち旋風が巻き起こり、向かう敵はあっという間に打ち砕かれて消え去る
あの武田信玄でさえ、最強の騎馬軍団をもってしても慎重にならざるを得ないのが上杉謙信の越後兵団だった
実際、川中島では兵数が同じだった大将同士の正面衝突では、上杉軍が圧倒的な攻撃で信玄の弟と重臣3名を殺し、嫡男義信、信玄自身も刀傷を負ったほどの謙信の強さであった、まさに戦国最強である。
謙信が動いたと聞いた七尾城では城主の畠山氏は飾り物で、実際は家老の遊佐氏と長氏が政治を担っていた
それでも取り囲んだ上杉軍に2か月の間抵抗した、そして長綱連(ちょうつなつら)は織田信長に援軍を要請した。
9月、織田信長は柴田勝家を総大将に北陸方面軍1万を主力として、それに羽柴、丹羽、滝川ら総勢25000を与力として派遣した
ところが、敦賀の陣営で何があったのかは不明だが、柴田勝家と羽柴秀吉が内戦にまで発展しそうな大喧嘩の末、秀吉は自分の8000の兵を引き連れて戦場を離脱、長浜へ引き上げた
織田信長と言う絶対的カリスマ独裁者の下で命令に背いて戦場離脱とはありえないことである
過去にも丹波、但馬攻めの際、荒木村重が戦場離脱、また本願寺攻めでは松永久秀が戦場離脱していて、どちらもその後、すぐに居城に閉じこもる謀反であった
だから長浜城に戻った秀吉の行動パターンも彼ら二名とまったく同じだったのである
この知らせはすぐに信長のもとに送られた、「まさか藤吉郎が謀反じゃと?」
柴田勝家からの報告には「羽柴筑前謀反」と書いてある、信長には信じられなかった、秀吉が謀反を起こす理由が見当たらない
(さては頑固者と強情者、儂の人選が間違っていたか)信長は、そう思い、すでに秀吉が戻っている長浜城を探らせると、城門は開けっ放しで軍装の兵も一人も見えず、平服の武士がちらほら城内、城外に見える程度で静かだという
やがて秀吉からも詫びの手紙が信長に送られてきて「ご怒りごもっとも、死に装束で打ち首の沙汰を静かに待つ日々を過ごしています」の旨がしたためてある、まずは今度の件が秀吉の謀反でないことに胸をなでおろし、信長は怒りと苦笑いを交互に繰り返した。
秀吉の離反を「謀反」と決めつけた柴田の文に二人のいさかいの根が深いことを知った。
柴田の対上杉軍はおよそ25000に減った、手取川を渡り能登に向かったが間もなく七尾城が畠山氏の家老遊佐続光の上杉内応で落城したことを知って退却を始めた
これに上杉と結んだ加賀一揆勢が南北から攻め立てた、それをあしらいながら織田軍は手取川まで後退したが、上杉謙信の2万に追いつかれ、戦わずして洪水の手取川に多くが追い落とされて大敗を喫した
報告を聞いた信長はふがいない柴田勝家に腹を立てたが、それ以上に戦争前から戦場離脱した羽柴秀吉にも改めて怒り
「あの大バカ者が、あやつのために謙信にいいようにやられてしまったわ、謙信が引き上げたからよいものの、一揆を従えて都に攻め込まれれば儂も覚悟を決めねばならぬところであった」
「しかたあるまい、腹を切れと言われたら腹を切るまでよ」秀吉はいたって冷静だ、その腹の奥には(信長様は織田家になくてはならぬ儂を殺すはずがない、柴田権六と比べても儂をとるに決まっておる)という自信を持っている
「羽柴筑前、岐阜まで申し開きに出でよ」信長からの命が下った
前日にはこれでもかと言うほどの珍品名品を信長の岐阜城に運び入れた
当日は死に装束で岐阜城に登城した、しかも奥方のねねを伴っている
信長はなぜか、ねねと馬が合う、これまでも自由奔放な秀吉を叱り、ねねを応援してきたのが信長である
信長のはるか遠くで平伏している秀吉とねねに対して信長が口を開いた
「なぜ、ねねが一緒にいるのだ、また昨日のあれはなんだ」
「申し上げまする」いつもの大声が鳴り響いた
「此度の拙者の行いは万死に値いたしまする、どうぞ極刑をもって拙者の首を刎ねていただきたい、奥も共に死ぬると申しておりますが、これはねねの我儘であり、お屋形様からぜひとも御諫めくださいますように、切のお願いいたしまする。 昨日、送りました品々は20数年に及ぶお屋形様からの御恩に対するお返しでございます、首と胴が離れる前に最後のご奉公でございまする」
「さようか、ねねよ、何故このような不埒な男と心中しようと思うのか」
「はい、いかにも不埒で破廉恥で好き勝手ばかりする夫でございます、ご存分に罰していただきたく存じます、されどこんな夫でも貧しき婚礼の日には、お屋形様からご媒酌をいただいた男でございます、わたしもその恩恵をもったいないほどいただきました、ゆえにただ一人旅立たせることはできません、どうぞ私の首も共に刎ねていただきたく参上仕りました」
「たわけ! 儂がいつ媒酌をした」
「たしかにそうでございます、媒酌人は前田様でありましたが、前田様を通じて、お屋形様から過分なるご祝儀、それに身に余る禄をいただきましたことは私たち夫婦の生涯の励みとなりました、ゆえに今ここで夫婦ともに死ぬことは何の悔やみもありません、どうか存分に御成敗ください」
「これ筑前、何か申し開きはあるか」
「ハッハー もはや何もありませぬが、お屋形様の天下統一を見ぬままに死ぬることだけが唯一心残りでございます、が、これも身から出たサビ、仕方ありませぬ、しかし。ねねだけは、どうかお許し賜りたく」
「ふん! ばかばかしい似たもの夫婦よ、たわけ者めが、お前たち夫婦の猿芝居には飽きた、とっとと長浜に帰って出陣の準備をせよ、今はうぬらの成敗をしているほど暇ではない、それどころではないわ、松永がまたしても本願寺に寝返った、戦支度をして直ちに大和に出ばれ」
「ははー、早速に出陣いたしまする」