加賀一揆指導者層、越前在地寺院、農民信徒の三つ巴の内紛は信長にとって絶好の機会になった、8月信長は岐阜城を発った
早くも出発して6日目には越前府中城を先発隊は落とし、そこで柴田、佐久間らは陣を張って周辺の残党狩りをしながら信長本隊を待った
だが秀吉や明智など数隊は残党を追いながら更に加賀まで攻め込んだ
加賀を目指して落ちていく敗残兵は、府中で待ち構える柴田隊に討ち取られていった、その数は数千人にも及んだ
一揆勢に寝返った朝倉景健も、加賀一揆の幹部、下間頼照など大物も次々と捕らえられて首を刎ねられた
加賀一揆の首領である七里はなんとか越前から加賀に逃げ帰ることができた
秀吉たちは加賀南部を占領して大聖寺城に梁田正綱を残し、北の庄まで戻った
越前の仕置きが決まった、軍団長の柴田勝家には8郡が与えられ、そのうちの1郡を甥の佐久間玄番盛政に与えて副将とした
柴田の与力大名として府中に佐々、前田、不破の3将それぞれに3万3333石を与え、共同統治とした、他に金森、原、武藤の諸将にも万石を与えて与力とした。
勝家の当面の仕事は加賀一揆を滅ぼし加賀の統一、さらに能登を手中にすることである、織田信長による独立した初の方面軍が完成した。
岐阜に戻った信長は忙しい、この男、じっとしていられない性格のようだ
いつも何者かに背中を押されていて、立ち止まるとたちまち前のめりに倒れこみそうになる錯覚が起きる
そして戦場に向かうときの高揚感がなんともいえぬ、それは快感と言ってもよい、多くの残虐な行為をしてきたが罪悪感は無いし、特別なこととも思わない
他の平時の戦と気分的には何ら変わらない、領土拡大が目的なのかと問われれば「否」と答えるだろう
領土を得る物質的な野心よりも、見知らぬ土地をわが領土として見る楽しみ、すなわち情緒的気分がたまらない
信長に謙信のような漢詩の才があったなら、心中を愛でる素晴らしい詩ができたかと思われる
では文化的な才がないかと言えば、それは嘘になる
信長は茶の湯を愛した、また能や謡曲にも親しみ自ら謡い舞ったし、スペイン人が持ち込む文明の利器、機械、装飾品にも興味を示し、また狩野一派の力強い絵画にもパトロンとして財を惜しみなく投入した
また城郭建築にも興味を持って、いずれこの国に未だかってない美しく巨大な城を築こうという気持ちがおぼろげに見えている
そうした事柄を達成、あるいは極めるためにも勝ち続ける必要がある、幸いにも努力しなくても向こうから敵となって表れてくる
その目の前の敵を潰すたびに新たな領土が増えていく、これは信長にとって最大の楽しみであり、喜びであった。
信長の次の目標は畿内の統一である、そのために本願寺と、それに味方する伊賀、甲賀、雑賀、および三好の残党と黒幕の足利義昭を退治しなければならない。
北陸は軍団を置き柴田勝家に任せた、勝とうと負けようとそれは勝家の才覚で行うことである、最終責任と権限を行使することだけが信長の仕事になった
また対武田、北条には徳川家康が体を張って向かっている、ここも信長の手を離れている場所だ
逆に言えば、信長が受け持つのは畿内と東美濃に残る武田の勢力を駆逐するくらいのものである、それが軍団制の最大の収穫である
秋になると、いよいよ信長は本願寺と三好一派の攻撃を開始した、それと同時に嫡男、織田信忠に兵を与えて武田方の恵那の岩村城を攻めさせた
ここはかって織田方の城で遠山氏が守っていたが、信玄が遠江侵略戦で別動隊の秋山隊がここを攻め取った
城主だった夫を失った遠山夫人は信長の叔母であったが、敵に城を渡し、自らも敵将である秋山の奥方になってしまった、信忠軍はそこを取り囲んだ
摂津、河内に攻め込んだ信長軍は5万と言う大軍で、たちまち三好方の城砦を攻め落とし、勢いで本願寺を取り囲んだ
勢いに恐れた本願寺が講和を申し込んできた、信長もなぜかそれを受け入れた、本願寺は信長が喜びそうな門外不出の名物を信長に和睦のしるしとして渡した
信長にしては何の条件もなく、本願寺の立ち退きもなく和睦したのは不可解であるが、何らかの事情があったのではないかと思われる
その間に信忠の方は岩村城を開城させて兵士は開放し、秋山夫婦を捕らえて信長に送った
信長は秋山とその重臣を処刑し、敵に身を売った叔母を自らの手で切り殺した
これで美濃全域は再び織田のものとなった、この時も武田勝頼は途中まで援軍として出陣し健在ぶりを見せつけた。
翌、天正4年(1576)雑賀衆らを迎い入れてより強固になった本願寺が再び信長に反旗を翻した。
本願寺を今風の寺で、中にいるのは坊さんなどと言う考えは大間違いである
500年以上前、南北朝以前から南都奈良の興福寺、比叡山延暦寺は武家に負けぬ財力と集金力、広大な荘園を持ち、朝廷からも特権を得ていた
それを使って武力も得ていたから、当時まだ京の山科で弱小だった本願寺などは焼き討ちにあって北陸まで逃げていくような様であった
その後、次第に力をつけた本願寺は摂津石山に巨大な伽藍を築き、それは同時に天然の巨大な城塞化していた
本願寺の周囲にも数十の砦や小城を築いて本願寺を守っている、淀川もその支流もすべて天然の堀であり、大軍であっても容易に攻め寄せることができなかった。
ただ幸いなのは本願寺やその他の力ある寺院は、武家のように領土拡大の野心は持っていなかったことである
一揆を扇動するのも信長などの武家からの過大な要求に対する反抗に他ならない、信長が京で権力を持つ前までは朝廷とも幕府(実権は三好が握っていたが)ともバランスの良い税負担で折り合いがついていたのだ
その点では信長の本願寺に対する要求は度を越していた
「本願寺の今の地を信長に開け渡せ」と言うのである、ようやく得た安住の地を簡単に渡すことはできない、それが一番の原因であった