goo blog サービス終了のお知らせ 

IZUNOHANA’s blog

     後期高齢驀進中者の戯言

我が身の都合次第という傲慢さ

2019-06-15 14:40:28 | この頃思う事

 ←拡大可能

3、4年前に、半分だけ株分けして植え替えた「花しょうぶ」が、またまた密集してきている。
植え替えをサボった株の根の張りようが尋常ではなく、もう、私の力では植え替えるのは無理だと放置していた。
その為かどうかは不明ながら、花茎が細くて、少しの雨でも水分を含んだ花の重さで倒れてしまうのを、毎日、摘み取っている・・・放置するのも楽ではない。

 


 

 

自慢になる事では無いと自覚しているが、ここ数年、まともに本を読むことがない。
言い訳としての一番目は、視力に問題があり、裸眼では文字の判読が難しくて、長い文章を読み切るのが辛くなったからだとしている。
二番目として、声高に(別に声を高くする必要もないけれど)言いつらねるのに、もう、人生最終に近づいて来た自分には、七十有余年の間に学び得た教訓が十分にあり、如何に有意義であっても、更に学ぶ必要はない・・・という傲慢なる姿勢である。

それでも、新聞や雑誌を斜め読みしている中で、ふと、心が引き寄せられる言葉に出会うと、またもや傲慢にも、「ふむふむ、こういうものの考え方は、自分は、もう何年も前から実践しているんだ」ってな事を思ったりするのだ。

 

数少ない私の読書体験(疑似読書体験で)に、NHKTV番組の「100分de名著」がある。

最近放送された中で、「マルクスアウレリウス:自省書」とか「平家物語」などは、私の目の前に本が置かれていても、絶対に、手に取る事はないと確信出来る書物なのだが、読み(否、聞き)進めて行くうちに、作者の考え方や捉え方に自分に近いもの、自分にとって納得のいくものを感じると、ふ~む、なかなか面白い本だなぁ(確かに面白かった!)・・・と、我が考え方の裏付けを取ったような気分になり、私にとっていい本だと評価する訳だ。
つまり、あくまでも自分が主体なのであって、名著を相手に、まさしく傲慢そのものと言える。

 

先日、久しぶりに、親戚筋の人から封書を受け取った。
その人の言わんとしていることは、中身を読まなくても分かる(常は、ある宗教と政治団体の勧誘)ので、そのまま破棄しようとしたが、他の事も書いてあるやもしれぬ(何しろ親戚だからね)と開封し、読んでみた・・・察しの通りであり、私はその封書を破って捨て、返信も止めた、我が身周辺から排除したのだ。
私は差別意識を持っていないし、心も広~く、何事でも受け入れる準備はあるなんて、常々、放言しまくっているのに、自分にとって都合の良い事だけを選択しているだけなのだと自覚した。


地球上では、偏見と頑な思考(政治的思惑も絡み)で、異質なものを受け入れることが出来ない紛争が絶え間なく起きているのを憂う一方で、何の損も得も蒙らない私のような人間でも、ただ、意味がない(と自分が思っているだけの)意見を聞くだけの寛大さもなく、他からの意義ある意見も受け入れようとしない傲慢な振る舞いの自分自身を、ちょい情けなく感じるのであった・・・少~しだけ(この感覚が微妙だね)反省する。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする