畑の隅に植え替えて10年余り経過した「薔薇」が、一時期、綺麗な花を咲かせていたのに、段々と、花の数も少なくなり、やがて葉が枯れ落ちるようになったので(勿論、心を込めた手入れをしないのが原因)、今年(昨年秋から?)は、薬剤を散布し、土や堆肥を追加し、その上、「花が良く咲く」と明記された肥料を山ほど投入・・・それが、果たして、良い結果(下段画像を拡大してご覧あれ)だと言えるのか・・・ちょい悩んでいる。
先日、遊び仲間と「オンライン飲み会」にチャレンジした際、前もって、PCカメラに映り込む家の中を検証して見た。
結構、ワイドなカメラのようで、私の書斎兼寝室にしている6畳間の左右の部屋もかなり映り込んでいるのだ。
それで、常には開放しっ放しの障子戸などを閉めてカメラで再確認すると、う~ん、なんと狭く息苦しい空間となってしまう・・・事実、狭い東屋(建前は隠居所)なのだから、致し方ない。
以前住んでいた東京のアパート(個人所有の貸家)は、玄関に足を踏み入れて13歩半でべランダに出てしまう・・・という部屋で、友人らには「13歩半の豪邸」と言って、我が家に招く事は遠慮させて貰っていたが、現状も、大した差は無いように思って、実測(足で)したところ、玄関から前方には、11歩で壁にブチ当たり、縁側から台所までは19歩で行き止まり・・・はぁ~、東京の豪邸(?)と遜色ないと判明した。
11歩の豪邸?はたまた19歩の豪邸か?・・・いやいや、比較すること自体が空しいではないか。
実は、私が家を出る前に、1、2年間、この東屋に住んでいた事があるが、その後、移築やら改築などをしているから、Uターンした時は、あまり我が家に戻ったという感覚は無くて、単に、母を介護する(看取る)ため母の家に同居したのだ・・・と、自分自身を埋没させないよう家との距離を置いていた。
母を見送ってから、この家の世話は、ともかく、自分が生きている間は続けるが、その後の事は「為るように為るだろう」と、相変わらず責任を放棄している。
別に、広くて快適な家に住みたい願望も、意地も、欲も持って無い・・・などとは、自慢にもならない話だし、殊更、大きな声で言い募る事は無意味だろうけれど、ただ、自分の所有物を持たない自由さ(精神的にも物理的にも)は吹聴したいような気分は持っている。
世間では「人間としての価値判断」の基準の一つに、「所有物の有無・夥多」が含まれているように感じるのは、持たない事を是として来た私のヒガミ根性もあるのかな?
若い時から、懸命に働き、物(所有物)を増やしてきたというご近所さんが、自分が高年齢になった今、何事を為すにも自分一人で維持する事が大儀になり、「この歳になり、初めて、物がある事が嫌になった」と話していたが、コロナ後の生活様式変化と合わせて、ちょい考えさせられる(考えてみる)言葉だと思うが、如何?