IZUNOHANA’s blog

     後期高齢驀進中者の戯言

とうとう「喜寿」を迎えました!

2023-10-24 09:15:10 | この頃思う事

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もう、数十年前(私が家を離れている時期だったので詳しい事は不明)から、我が家の入り口には「金木犀」が植えてある。
15年前に我が家に戻って来た時には、既に、結構、大木と言えそうな程に大きく茂っており、周辺の庭木や草花にも影響して邪魔な存在になっていたので、思い切って(密かに、枯れてもイイやと思いながら)木の丈を半分くらいでのところで切り落とした。
その木は、今では当時に負けないくらいの大きさに成長を続けている。
季節の香りを楽しめる喜びと同時に、またもや、清々と切り落としたい気持ちが頭をもたげてくるのである。

 

 


 


10月24日で満77歳となった、そう、所謂「喜寿」を迎えたという事。
「喜寿」を迎えた朝、一番に感じたのは・・・とうとう「喜寿」なんだ・・・だった。

かつて「還暦」や「古稀」を迎えた時には、特に気になる思いもなく、ま、「節目」を順調に経過したぐらいにしか感じていなかった。
が、「喜寿」に到達した今、まず、思いに至ったのは「あと何年生きられるのかなぁ」だったのだ、つまり、ただの経過点通過と言う感覚ではなく、事務的に言うならば「我が生命の償却可能年数」とでも表現しようか・・・つまり、購入した資産は、日々、目減りはするけれど、ある一定の%の価値が、その物を完全に廃棄処分するまで残っている(残存価格という)ことを考えると、では、私と言う人間の残存価格(値打?)は如何ばかりかな?と、この「喜寿」到達で、急に意識し出し思考する、でも、迷走している。
我が家の系統としては、案外長生きだと思っていて(正確に調査はしないが・・・)、自分自身でも、口では「いつ死んでもおかしくない歳」と言いつつも、では、我が生命の残存年数はどのくらいあるのかなんて真剣に考えたことが無い、そう、何となく、自分も長生きするのではないか・・・と思っているだけなのだ。
今現在で償却期限の終わった私にも、多少の残存価格(価値)があるとしても、この先不明な残存生命年数を消化するうちに、すべて消失してしまうような気がする、若しかするとマイナスにだってあり得るし、それも悲しい、でも、だからと言って・・・とかね。

そんな意味もない迷走をしていること自体がオカシイのかもしれない。
ただ、この迷走するの中で、一つだけ明らかなものは、「不明な事に迷い込んでもイイ事無いよ」という事だ。
「喜寿」に到達した今、他人様からではなく、私自身が価値を認めていることを、日々、維持する努力が大切なんだ・・・と、自分に言い聞かせた。

      白ワイン(シャルドネ)

自分で「お祝い」しようと、久しぶりに「ワイン」を購入した。
飲みたい気分から遠ざかっていたのに、一口味わい、美味しい!と思えて・・・長生きしそうな気もする一方、何とな~く、それも困るし・・・と思ってしまった私である。

コメント (4)
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