楽美術館を出たあとは、まだ少し時間があったので、野々村仁清をしのんで仁和寺に寄った。仁清は、仁和寺の門前に窯を開き、本名(通称)清右衛門の「清」に仁和寺の「仁」を合わせて、仁清と名乗ったという。ざっと門前を眺めた限りでは、何も見つからなかったが、帰ってから調べたところ、もう少し東寄り、御室小学校の近くの個人宅前に石碑があるらしい。次回は尋ねて行ってみよう。
■参考:京焼の窯跡を発掘調査した木立雅朗教授(立命館大学)のサイト
http://www.ritsumei.ac.jp/mng/gl/koho/rs/061025/kiwameru.htm
仁和寺は、秋季名宝展を開催中で、霊宝館の阿弥陀三尊にお会いできた。穏やかな表情が懐かしい仏様である。草花に荘厳された金色の光背が、背景の白壁に映えて、ヨーロッパふうの優美さを感じさせる。
ところで、仁和寺には、以前から気になっていることがある。白書院の外に掛かっている額に「光緒丁亥季春穀旦」「總統穀軍四川提督宋慶敬立」とあるのだ。調べてみたら、宋慶という人は、李鴻章幕下の軍人で、日清戦争(1894~1895)では日本軍と激しい陸戦を戦ったらしい。ただし、この額は「光緒丁亥(1887年)」とあるから、日清戦争以前のものだろう。なお、座敷内にある額は、山西省の懸空寺にある、李白筆「壮観」の写しではないかと思う。うーん。どういう由緒なのかなあ。
そろそろ日も傾いてきたので、京都に別れを告げることにする。帰りの新幹線で読む本を買っていこうと、四条烏丸でバスを降りて、いつものジュンク堂に寄った。そのとき、ふと目を上げたら、おお!「円山応挙宅跡」とあるではないか。ジュンク堂の向かい側(南側)、四条高倉のバス停のあたり、しゃぶしゃぶ木曽路の入口脇である。はからずも、応挙先生に「寄っていきなさい」と招かれたみたいで嬉しかった。
ちなみに、応挙の墓は右京区太秦東蜂岡町の悟真寺(広隆寺の近く)、蘆雪の墓は上京区御前通一条下るの回向院(北野天満宮の南)にあることが、『応挙と蘆雪』の展覧会で判明した。次回は、これらも訪ねてみたい。
■参考:京焼の窯跡を発掘調査した木立雅朗教授(立命館大学)のサイト
http://www.ritsumei.ac.jp/mng/gl/koho/rs/061025/kiwameru.htm
仁和寺は、秋季名宝展を開催中で、霊宝館の阿弥陀三尊にお会いできた。穏やかな表情が懐かしい仏様である。草花に荘厳された金色の光背が、背景の白壁に映えて、ヨーロッパふうの優美さを感じさせる。
ところで、仁和寺には、以前から気になっていることがある。白書院の外に掛かっている額に「光緒丁亥季春穀旦」「總統穀軍四川提督宋慶敬立」とあるのだ。調べてみたら、宋慶という人は、李鴻章幕下の軍人で、日清戦争(1894~1895)では日本軍と激しい陸戦を戦ったらしい。ただし、この額は「光緒丁亥(1887年)」とあるから、日清戦争以前のものだろう。なお、座敷内にある額は、山西省の懸空寺にある、李白筆「壮観」の写しではないかと思う。うーん。どういう由緒なのかなあ。
そろそろ日も傾いてきたので、京都に別れを告げることにする。帰りの新幹線で読む本を買っていこうと、四条烏丸でバスを降りて、いつものジュンク堂に寄った。そのとき、ふと目を上げたら、おお!「円山応挙宅跡」とあるではないか。ジュンク堂の向かい側(南側)、四条高倉のバス停のあたり、しゃぶしゃぶ木曽路の入口脇である。はからずも、応挙先生に「寄っていきなさい」と招かれたみたいで嬉しかった。
ちなみに、応挙の墓は右京区太秦東蜂岡町の悟真寺(広隆寺の近く)、蘆雪の墓は上京区御前通一条下るの回向院(北野天満宮の南)にあることが、『応挙と蘆雪』の展覧会で判明した。次回は、これらも訪ねてみたい。