このブログを始める前は、ちょっとした海外旅行に出かけると、旅行記を書いて、別サイトで友人知人に公開していた。今回は、仕事以外のネタは少ないので、こっちに統合してしまおうと思う。
成田を出発したのは12日(土)の夕方。ワシントン(ダレス空港)で乗り換え、同じ12日の18時過ぎにボストン到着の予定になっていた。
成田では、なじみのうすい第1ターミナルで、ちょっと迷った。私がよく行くアジア方面は第2ターミナル発着が多い。アメリカ行きは10年ぶり。ただし、このときの目的地はハワイだったので、考えてみたら、アメリカ本土に渡るのは14年ぶりである。迷いはしたが、時間の余裕をもって着いていたので、慌てることなく、旅行保険の加入を済ませ、同行の上司と落ち合い、搭乗口に向かった。
話に聞いてはいたものの、セキュリティ・チェックは、いつになく厳しい。靴やコートは脱いでX線検査機を通らせなければならない。ペットボトル(液体物)は取り上げられる。検査場で、私は係官のお姉さんに「Boarding pass please?」と英語で話しかけられて「あ、はい」と応じたら、「あ、どうも」と気まずそうな日本語の答えを返された。いつものことだが、何国人に見えるんだろうなあ、私。
飛行機は定刻どおりに離陸。しかし、上昇が終わっても、なかなか揺れが収まらないので、ドリンクサービスも始まらない。1時間を過ぎた頃、少し揺れが減ってきたので、(たぶん)痺れを切らしていたフライトアテンダントたちは、これ幸いと思ったのか、ドリンクサービスが始まった。ところが、カートが一周して、乗客に飲み物が行き渡った頃、再び機体の揺れが激しくなった。後方の座席だった私たちは、まだドリンクを受け取ったばかりである。「横揺れは激しいけど、上下動がない分、救われますね」なんて呑気に話していたのだが、突然、ジェットコースターのような急降下に襲われ、機内はちょっとしたパニック。私はカップを取り落として、隣席の上司の膝にオレンジジュースをぶちまけてしまった(すみません)。
その後もさらに1時間ばかり、ローカル私鉄(たとえば京急)の特急に乗っているような、機体の揺れが続いた。トイレが我慢できなくなったお客が席を立とうとすると「危険ですから立たないでください!」と厳しい叱声のアナウンスが飛ぶ。活字も読めないので、体を機体の揺れにまかせて、ただ座っているだけ。そんな状態が、日付変更線を超える頃まで続いた。
それから、ようやく夕食が出て、少し眠る。夜食は赤いきつねのミニサイズでびっくり(蓋に「らあーめん」とひらがなで書いてあったが違うだろう)。お湯がぬるいので全くおいしくない。コーヒーを頼めば「Milk?」と聞いて、500ml入りの牛乳パックをポイと置いていくし。アメリカの航空会社ってアバウトだなあ。
ほぼ定刻どおりにワシントンのダレス空港に到着。ここで国内線に乗り継がなくてはならない。ところが、入国審査カウンターが遠い。複雑に曲がりくねった細い廊下を、どこまでも歩かされる。まるで、敵兵の侵入を防ぐために造られた、中世の城郭のようだよね、と上司と苦笑し合う。
ようやくたどり着いた入国審査場は、呆然とするような大混雑。狭いホールに十重二十重に折り曲がった行列が続いている。私たちに用意された乗り継ぎ時間は1時間半。成田でチェックイン済みの搭乗券には30分前に搭乗口に行けとあるのだが、とても間に合いそうにない。「15分前に着けばなんとかなるんじゃないですか」「少し出発を遅らせて、待っててくれないかしら」と言ってみるのだが、全て希望的推測の域を出ない。試しに空港の係員に「我々は時間がない」と言ってみたが、あっさり「セキュリティが大事だ」と拒絶された。
セキュリティのため、入国者は左右の人差指の指紋をスキャンされ(このデータ照合時間が長い)、顔写真を撮られた。それから、預け荷物を拾って、乗り継ぎロビーに進もうとすると、また足止めされて、長い列に並ばされた。何かと思えば、手荷物のX線検査である。もちろん靴もコートも脱がされる。往生際の悪い私も、さすがにこのへんで、乗り遅れの可能性が99%かな、と腹を括った。
手荷物検査を通り抜けると、次は町工場の作業場のような雑然とした大部屋だった。ベルトコンベアつきの検査装置が何台も、喧しい音を立てて作動しており、乗客は、適当なコンベアの前にトランクを放置して去っていく。はあ?? 何がどうなっているのか、まるで呑み込めない。しばらく考えて、これで(成田で付けられた行き先タグに従って)荷物が乗り継ぎ便に積み込まれるらしいと理解する。
乗り継ぎ手続きを全て終えたのは17:00過ぎ。16:45発の飛行機はもう飛び立っている筈だが、祈るような気持ちで掲示板を見ると、17:15発に変更されている。まだ間に合う(かもしれない)! そこで小走りに指定されたゲートに急いだが、運の悪いことに、これがまた遠い。脇目もふらず、搭乗ロビーのいちばん端まで走って、大汗をかき、なんとか機内に滑り込むことができた。
座席に着いて、これで安心と思うと、どっと疲れが出て、思わず、ウトウトと一眠り。ところが目が覚めてもまだ飛行機が出ていない。結局、1時間以上遅れて18:00近くに離陸となった。(あんなに走るんじゃなかった・・・)
最終目的地のボストンに到着したのは、1時間遅れの19:30頃。まあ、この時間なら、市内でゆっくり夕食も取れるだろう、と思っていた。ところが、ここからが想定外のアクシデント。2人とも、預けたトランクがなかなか出てこないのである。もしかしてレーンが違うんじゃない?と不審がって、あちこち詮索しているうちに、上司のトランクが出てきた。ああ、それなら並べて預けた私のトランクも大丈夫だろう、と、一旦は安心したのだが、それから、いくら待っても私の荷物は出てこない。「クレームしたほうがいいよ」と言われ、うわー初日から実践英会話かよ~と気が重くなったが、覚悟を決めて、Baggage Serviceと書かれたカウンターに行く。すると、正面にある電話でBaggage Centerに直通電話をかけろと言う。
教えられたとおりにかけてみると、名前、便名、今日のホテル、荷物の特徴などを聞かれた。はじめは明日の朝までに届けると言っていたが、ボストン市内のホテル名を言うと、今夜中に届けると言う。本当かどうかわからないが、待ってみるしかない。上司には「当座、大丈夫?」と心配してもらったが、まあ1晩くらい、着のみ着のままでも全く困らない性質である。これだけ絵に描いたようなトラブルが続くと、実は面白くて仕方なかった。しかし、私はこれまで年平均1回以上の海外旅行・出張を繰り返してきて、荷物関係のトラブルに遭ったことはなかったので、掛け捨ての旅行保険に入るとき、「携行品」条項はいつも無視していた。今回も同様である。いまさらながら、ちょっと後悔。
なんだかんだで空港を出たのは21:00頃。ガイドブックに従って地下鉄で市内に行こうと思ったら、おばちゃんに「Closed!」と注意されて、シャトルバスとタクシーを乗り継ぐことになったりしたが、長い旅路の末に、ホテルに到着。近くのレストランで遅い夕食を取り、0:00過ぎに就寝した。
フロントには、荷物が届いたら、いつでも(anytime)受け取る、と言っておいたのだが、電話のベルで起こされたのは、結局、早朝5:30頃。それでも、やれやれ、これで2日日から予定どおりの行動ができると思って一安心。もう一眠りしたのだったか、しなかったのだか。こうして、波乱の初日が終わり、アメリカ東海岸ツアーが始まったのである。
成田を出発したのは12日(土)の夕方。ワシントン(ダレス空港)で乗り換え、同じ12日の18時過ぎにボストン到着の予定になっていた。
成田では、なじみのうすい第1ターミナルで、ちょっと迷った。私がよく行くアジア方面は第2ターミナル発着が多い。アメリカ行きは10年ぶり。ただし、このときの目的地はハワイだったので、考えてみたら、アメリカ本土に渡るのは14年ぶりである。迷いはしたが、時間の余裕をもって着いていたので、慌てることなく、旅行保険の加入を済ませ、同行の上司と落ち合い、搭乗口に向かった。
話に聞いてはいたものの、セキュリティ・チェックは、いつになく厳しい。靴やコートは脱いでX線検査機を通らせなければならない。ペットボトル(液体物)は取り上げられる。検査場で、私は係官のお姉さんに「Boarding pass please?」と英語で話しかけられて「あ、はい」と応じたら、「あ、どうも」と気まずそうな日本語の答えを返された。いつものことだが、何国人に見えるんだろうなあ、私。
飛行機は定刻どおりに離陸。しかし、上昇が終わっても、なかなか揺れが収まらないので、ドリンクサービスも始まらない。1時間を過ぎた頃、少し揺れが減ってきたので、(たぶん)痺れを切らしていたフライトアテンダントたちは、これ幸いと思ったのか、ドリンクサービスが始まった。ところが、カートが一周して、乗客に飲み物が行き渡った頃、再び機体の揺れが激しくなった。後方の座席だった私たちは、まだドリンクを受け取ったばかりである。「横揺れは激しいけど、上下動がない分、救われますね」なんて呑気に話していたのだが、突然、ジェットコースターのような急降下に襲われ、機内はちょっとしたパニック。私はカップを取り落として、隣席の上司の膝にオレンジジュースをぶちまけてしまった(すみません)。
その後もさらに1時間ばかり、ローカル私鉄(たとえば京急)の特急に乗っているような、機体の揺れが続いた。トイレが我慢できなくなったお客が席を立とうとすると「危険ですから立たないでください!」と厳しい叱声のアナウンスが飛ぶ。活字も読めないので、体を機体の揺れにまかせて、ただ座っているだけ。そんな状態が、日付変更線を超える頃まで続いた。
それから、ようやく夕食が出て、少し眠る。夜食は赤いきつねのミニサイズでびっくり(蓋に「らあーめん」とひらがなで書いてあったが違うだろう)。お湯がぬるいので全くおいしくない。コーヒーを頼めば「Milk?」と聞いて、500ml入りの牛乳パックをポイと置いていくし。アメリカの航空会社ってアバウトだなあ。
ほぼ定刻どおりにワシントンのダレス空港に到着。ここで国内線に乗り継がなくてはならない。ところが、入国審査カウンターが遠い。複雑に曲がりくねった細い廊下を、どこまでも歩かされる。まるで、敵兵の侵入を防ぐために造られた、中世の城郭のようだよね、と上司と苦笑し合う。
ようやくたどり着いた入国審査場は、呆然とするような大混雑。狭いホールに十重二十重に折り曲がった行列が続いている。私たちに用意された乗り継ぎ時間は1時間半。成田でチェックイン済みの搭乗券には30分前に搭乗口に行けとあるのだが、とても間に合いそうにない。「15分前に着けばなんとかなるんじゃないですか」「少し出発を遅らせて、待っててくれないかしら」と言ってみるのだが、全て希望的推測の域を出ない。試しに空港の係員に「我々は時間がない」と言ってみたが、あっさり「セキュリティが大事だ」と拒絶された。
セキュリティのため、入国者は左右の人差指の指紋をスキャンされ(このデータ照合時間が長い)、顔写真を撮られた。それから、預け荷物を拾って、乗り継ぎロビーに進もうとすると、また足止めされて、長い列に並ばされた。何かと思えば、手荷物のX線検査である。もちろん靴もコートも脱がされる。往生際の悪い私も、さすがにこのへんで、乗り遅れの可能性が99%かな、と腹を括った。
手荷物検査を通り抜けると、次は町工場の作業場のような雑然とした大部屋だった。ベルトコンベアつきの検査装置が何台も、喧しい音を立てて作動しており、乗客は、適当なコンベアの前にトランクを放置して去っていく。はあ?? 何がどうなっているのか、まるで呑み込めない。しばらく考えて、これで(成田で付けられた行き先タグに従って)荷物が乗り継ぎ便に積み込まれるらしいと理解する。
乗り継ぎ手続きを全て終えたのは17:00過ぎ。16:45発の飛行機はもう飛び立っている筈だが、祈るような気持ちで掲示板を見ると、17:15発に変更されている。まだ間に合う(かもしれない)! そこで小走りに指定されたゲートに急いだが、運の悪いことに、これがまた遠い。脇目もふらず、搭乗ロビーのいちばん端まで走って、大汗をかき、なんとか機内に滑り込むことができた。
座席に着いて、これで安心と思うと、どっと疲れが出て、思わず、ウトウトと一眠り。ところが目が覚めてもまだ飛行機が出ていない。結局、1時間以上遅れて18:00近くに離陸となった。(あんなに走るんじゃなかった・・・)
最終目的地のボストンに到着したのは、1時間遅れの19:30頃。まあ、この時間なら、市内でゆっくり夕食も取れるだろう、と思っていた。ところが、ここからが想定外のアクシデント。2人とも、預けたトランクがなかなか出てこないのである。もしかしてレーンが違うんじゃない?と不審がって、あちこち詮索しているうちに、上司のトランクが出てきた。ああ、それなら並べて預けた私のトランクも大丈夫だろう、と、一旦は安心したのだが、それから、いくら待っても私の荷物は出てこない。「クレームしたほうがいいよ」と言われ、うわー初日から実践英会話かよ~と気が重くなったが、覚悟を決めて、Baggage Serviceと書かれたカウンターに行く。すると、正面にある電話でBaggage Centerに直通電話をかけろと言う。
教えられたとおりにかけてみると、名前、便名、今日のホテル、荷物の特徴などを聞かれた。はじめは明日の朝までに届けると言っていたが、ボストン市内のホテル名を言うと、今夜中に届けると言う。本当かどうかわからないが、待ってみるしかない。上司には「当座、大丈夫?」と心配してもらったが、まあ1晩くらい、着のみ着のままでも全く困らない性質である。これだけ絵に描いたようなトラブルが続くと、実は面白くて仕方なかった。しかし、私はこれまで年平均1回以上の海外旅行・出張を繰り返してきて、荷物関係のトラブルに遭ったことはなかったので、掛け捨ての旅行保険に入るとき、「携行品」条項はいつも無視していた。今回も同様である。いまさらながら、ちょっと後悔。
なんだかんだで空港を出たのは21:00頃。ガイドブックに従って地下鉄で市内に行こうと思ったら、おばちゃんに「Closed!」と注意されて、シャトルバスとタクシーを乗り継ぐことになったりしたが、長い旅路の末に、ホテルに到着。近くのレストランで遅い夕食を取り、0:00過ぎに就寝した。
フロントには、荷物が届いたら、いつでも(anytime)受け取る、と言っておいたのだが、電話のベルで起こされたのは、結局、早朝5:30頃。それでも、やれやれ、これで2日日から予定どおりの行動ができると思って一安心。もう一眠りしたのだったか、しなかったのだか。こうして、波乱の初日が終わり、アメリカ東海岸ツアーが始まったのである。