見もの・読みもの日記

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変貌は続く/北京(倉沢進、李国慶)

2007-09-03 23:00:01 | 読んだもの(書籍)
○倉沢進、李国慶『北京:皇都の歴史と空間』(中公新書) 中央公論新社 2007.8

 中国に好きな土地・都市はいろいろあるが、やっぱり北京がいちばん興味深い。近年、中国の近現代史に興味を持って、特にそう感ずるようになった。だからこのブログでも、北京について書かれた本はずいぶん取り上げてきた。宇野哲人『清国文明記』しかり、林田愼之助『北京物語』しかりである。しかし、これらはいずれも古き皇都の面影を残す戦前の北京について記述したものだ。

 人民共和国成立以後、今日までの北京の町並みと人々の暮らしの変化については、映画や小説を通じて断片的な情報は得てきたが、本書のように、社会学者の視点から、体系的に、しかも素人にも読みやすく提示されたのは、初めての文献ではなかろうか。非常に興味深かった。

 人民共和国成立直後、「毛沢東の北京」は「単位社会」を基本とした。人々はどこかの単位(職場)に属し、単位が供給する職員住宅に住み、購買部・医療・学校・娯楽など、あらゆる生活サービスを単位から受け取る。これは、地域社会の未成熟を国家が補うには最も効率のいい方策である。日本でいえば、山奥の鉱山に大量の社員を居住させる場合、あるいは江戸に置かれた諸藩の藩邸(大名のみならず、家臣団や足軽も居住していた)のようなものである、という。この対比は面白い。

 著者(李、1963年生)は、自身が単位住宅で育った子供時代を回想している。四合院と同じで、鍵をかけない生活が可能だったという。日本の社宅よりも、ずっと親密な共同生活空間だったことがうかがえる。

 一方、単位に属さない都市居民は古い四合院住宅に雑居していた。四合院は、本来、1家族で住むものだが、文革時代に個人住宅は没収され、1つの四合院に数世帯、十数世帯が雑居するようになった。この居住形態を「大雑院」という。70~80年代の中国を描いた映画や小説に登場する、古きよき”長屋”ふうの風情がこれである。

 改革開放の進んだ「小平の北京」では、個人が住居を選択し購入する自由が認められた。別の見方をすれば、市場経済に投げ出された企業は、従業員の生活を丸抱えで面倒を見ている余裕はなくなったのである。それゆえ、人々は「単位人」から「社会人」への変貌を迫られた。単位に変わって、地域住民の生活サービスのために設けられたのが「居民委員会」である。この文字、中国の町で、しばしば見た覚えがある。これも中国歴代王朝の行政補完的な住民組織「保甲」とか「里老人」と対比されていて、なるほどと思った。

 現在、中国では、都市雑業層を取り込んだ地域社会=社区(コミュニティ)の建設が差し迫った課題とされている。あー「社区」という文字も、そういえば、いつの頃からか、大きな町ではよく見るようになった。

 以上が大筋の要約であるが、後半では、2000年に北京北部に出現した、近代的かつエコノミーな巨大団地「回龍観団地」やら、北東部の韓国城(コリアン・タウン)「望京新城」やら、各地の出稼ぎ者が集まる地区、たとえば「浙江村」(大紅門地区)「新疆村」「安徽村」の住民の雑草のような逞しさ、IT産業に従事するエリート集団「北漂一族」など、実に興味深い話が頻出する。前述の「回龍観団地」では、単身や核家族の若者がインターネットで”客”を募り、大人数でテーブルを囲む中国伝統の食事形態を維持しているという、新しい風俗も紹介されている。日本社会との違いが感じられて面白い。北京人は、外来者に対して、寛容といえば寛容。でも、ある一線から内側には、簡単には入れないんだろうな。

 毛沢東時代、北京の都市計画をめぐって、ソ連の提案に反対し、城内の文化遺跡を護るため、行政中心区を城外に建設することを主張した2人の建築家、梁思成と陳占祥の名前もここに記録しておこう。梁思成は、あの梁啓超の息子で日本生まれ。文中コラムにさらりと「文化大革命のさなかに没した」とあるが、どんな最期だったのかなあ。その息子さんは、いま、環境問題NPOで活動しているという。私はひそかに梁啓超ファンなので、感慨深く思った。
コメント
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