見もの・読みもの日記

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京都学「前衛都市・モダニズムの京都」1895-1930(京都近代美術館)

2009-07-21 23:59:31 | 行ったもの(美術館・見仏)
京都近代美術館 京都新聞創刊130年記念『京都学「前衛都市・モダニズムの京都」1895-1930』(2009年6月9日~7月20日)

 3連休の中日、津和野を後に、京都に移動する。本展は、1895(明治28)年、平安遷都1100年を記念して、ここ京都近代美術館のある岡崎で開催された「第四回内国勧業博覧会」を起点とし、「近代の京都」の多様な文化を再考するもの。会期終了直前に、なんとか間に合った。

 最初のセクション「明治モダニズム都市・京都」は、まず、1885(明治18)年に着工した琵琶湖疏水工事に注目する。この工事を克明に写し取った、京都洋画壇の先駆者が田村宗立(そうりゅう)だった。誰それ?と思ったが(肖像画は北大路欣也似)、作品『越後海岩図屏風』や『山僧怪力』を見て思い出した。2006年、東京国立近代美術館の『揺らぐ近代-日本画と洋画のはざまに』で見たものである。この前日、津和野でも、原田直次郎の名前に出会って、同じ展覧会を思い出していたので、ちょっとした奇縁に感じた。

 本展には、上記以外にも、山内愚僊の愛らしい油彩画屏風『薔薇と犬』や、浅井忠の洒脱な水墨画『パリ婦人散歩図』などが出ていて、確かに「洋画と日本画のはざま」という問題について、あらためて考えさせられるところがあった。

 続くセクションでは「第四回内国勧業博覧会」を取り上げる。そうかー。東京人の私には、内国勧業博覧会といえば「上野」のイメージが強固だが、それは第1~3回までのこと。第4回は京都、第5回は大阪で行われた。そして、京都博覧会の象徴として建立されたのが、今に残る平安神宮である。現場事務所の責任者として、共同設計と工事監督に従事したのは、当時まだ大学院生だった伊東忠太。ええ、そうだったのか! 本展の調査の過程で発見されたという(じゃ、初公開かな?)色鮮やかな大判図面(平安神宮所蔵)が多数、展示されていて興味深かった。

 私は、平安神宮を忠太の作品として意識したことは一度もなかった。一見するとノーマルな和風建築で、全然忠太っぽくないのである。しかし、今回、図面を見ていて、ひっかかったのは、太極殿の左右にそびえる蒼龍楼と白虎楼。どちらも、一層の屋根の中央に高い二層の楼閣を乗せ、その四方に小さな楼閣を乗せる(写真→個人HP)。なんか変だ。日本の建築にこんな様式があったかしら。その謎は、翌日の奈良博『寧波』展で解けた。インドの影響を受けたという「阿育王塔」の造形がそっくりだったのだ。やっぱり、伊東忠太は忠太である。

 後半は、陶磁器・染織・七宝などの工芸品を紹介。重要人物のひとりが、もと大学南校のお雇い外国人、ゴットフリート・ワグネル。美麗な工芸品に混じって展示された、当時の「舎密局(せいみきょく)」の看板が目を引いた。簡素な木板に墨書の看板で、文字は消えかかっていた。さらに昭和以降の京都モダニズムは、建築・出版・広告・映画など、多様なメディアに進出していく。

 感銘深かったのは、島津源蔵の率いた島津製作所はもちろん現役だし、上野伊三郎が設計を担当したスター食堂はスター株式会社として現存しており、浅井忠や武田伍一が教鞭を取った京都高等工芸学校が京都工芸繊維大学になるなど、モダニズムの京都は、何らかのかたちで、今日の京都につながりを残していると分かったことである。何よりも、京都近代美術館の窓の前にそびえる平安神宮の大鳥居がその好例を示している。

 同時開催『無声時代ソビエト映画ポスター展』も大迫力で楽しめる。ソビエトって、なんて素敵な時代だったんだろう、と妙な誤解をしてしまいそうだ。こちらは8月23日まで。
コメント (1)
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