○宇佐美文理『中国絵画入門』(岩波新書) 岩波書店 2014.6
冒頭にカラー図版が16頁、本文にも図版満載の嬉しい本である。私は日本の古い絵画好きが高じて、少しずつ中国絵画に関心を広げた。冒頭のカラー図版は、日本の美術館にあるもの、あるいは教科書に載るような超有名作品が多いので「だいたい知ってる」という印象を持った。だが、それらを系統的に理解しているかというと、全く弱いので、本書で勉強してみることにした。
著者は、中国絵画を特徴づける概念は「気」であると考える。そして、本書は、絵画の最も基本的な要素である「形」が、「気」とどのようにかかわってきたかに着目して書かれた中国絵画史である。
記述は、新石器時代の岩画や彩陶から始まる。立体造形と平面造形を比べて、もともと三次元の物体(動物など)を立体で表すより、平面(絵画)で表す方が「抽象的な作業と過程を必要とする」という指摘に、目からウロコが落ちた。絵画で表すべき「かたち」はもともと存在しない。なるほど、そのとおりだ。画像石のデザインは面白いなあ。あれほど「記録」好きな中国なのに、画像石についての同時代文献はないそうだ。
六朝(3-6世紀)から唐代(7-10世紀)へ。文化は急速に洗練される。この時代には、目に見えない「気」を目に見える「形」を使って表すことが意識される。石棺や墓室の壁を飾る「いきいきとした」形。
敦煌壁画には、西域の立体表現が伝わり、当初は「凹んだへところに隈取り」だったものが、のちに「出っ張ったところに隈取り」に変化する、という指摘はとても面白い。そして、最終的に中国絵画は、面的グラデーションでなく、線によって立体を表現する方法にシフトする。これが、のちに山水画では「皴法(しゅんぽう)」として現れてくる。なるほど、日本絵画の場合はどうなのだろう。やっぱり「面」が先?
唐代後半には、のちの中国絵画に大きな影響を与える、「逸品」と「人格主義」という二つの発想が生まれる。「逸品」というのは、「神品」「妙品」「能品」という三段階のランクを外れた「基準外」が元来の意味だった。三品が「線による表現の評価」であるのに対し、「逸品」は、線によらない「溌墨」や「破墨」の技法を評価したものだという。なるほど~生噛りしていた用語が、きれいに整理できた。
中国の文化は中唐に大きな転換期があったと考えられるが、その頃の作品があまり残っていないため、変化を感じ取れるのは、五代(10世紀)から宋(10-12世紀)になる。荆浩(けいこう)・関仝(かんどう)の屹立する「華北山水」は、李成、范寛、郭煕というピークを迎える。李成の「平遠」、范寛の「高遠」、郭煕の「深遠」という「三遠」の理論。こういう数によるまとめ方は、いかにも中国人の思考らしい。
一方、董源・巨然の平淡な「江南山水」(南方山水)は、北宋末から南宋にかけて、米芾(べいふつ)・米友仁に受け継がれる。また、胸中の風景を描く文人画、小景画、緻密な絵画(清明上河図)など、多様な作品が現れる。
南宋(12-13世紀)の中心を占めるのは院体画。北宋の郭煕を受け継ぎ、以下、元代李郭派(13-14世紀)、明代院体画(14-17世紀)、明代浙派と「世界の気(大気)」を描き続ける。一方、宋代の文人画は「形そのものによる作者(の気)の表現」として、元末四大家、明代呉派、明代後期の奇想派、清朝絵画(新しい形の創造の模索)へ繋がっていく。そして、郭煕以来の「大気感」は、浙派の衰退・呉派の隆盛とともに、その存在を消してしまう。
本書のように、時代順、流派(スクール)別に整理してみると、今までごちゃごちゃに見て来た作品が、あらためて「似たものどうし」整理できることに納得した。当たり前すぎて間抜けな感想だが、宋代の山水画と明代の山水画って、全然ちがうものなんだな。そして、董其昌(とうきしょう)と明代の「奇想派」の山水は面白い。大好きだ。曾我蕭白とか、絶対影響を受けていると思う。
それから、南宋の天才画家・牧谿(もっけい)をレンブラントと比較し、レンブラントの絵画は「光が当たっている」したがって「影のある」作品であるのに対し、牧谿の作品では「(空)気そのものが輝いている」というのは、思わず膝を打ちたくなる表現だった。
冒頭にカラー図版が16頁、本文にも図版満載の嬉しい本である。私は日本の古い絵画好きが高じて、少しずつ中国絵画に関心を広げた。冒頭のカラー図版は、日本の美術館にあるもの、あるいは教科書に載るような超有名作品が多いので「だいたい知ってる」という印象を持った。だが、それらを系統的に理解しているかというと、全く弱いので、本書で勉強してみることにした。
著者は、中国絵画を特徴づける概念は「気」であると考える。そして、本書は、絵画の最も基本的な要素である「形」が、「気」とどのようにかかわってきたかに着目して書かれた中国絵画史である。
記述は、新石器時代の岩画や彩陶から始まる。立体造形と平面造形を比べて、もともと三次元の物体(動物など)を立体で表すより、平面(絵画)で表す方が「抽象的な作業と過程を必要とする」という指摘に、目からウロコが落ちた。絵画で表すべき「かたち」はもともと存在しない。なるほど、そのとおりだ。画像石のデザインは面白いなあ。あれほど「記録」好きな中国なのに、画像石についての同時代文献はないそうだ。
六朝(3-6世紀)から唐代(7-10世紀)へ。文化は急速に洗練される。この時代には、目に見えない「気」を目に見える「形」を使って表すことが意識される。石棺や墓室の壁を飾る「いきいきとした」形。
敦煌壁画には、西域の立体表現が伝わり、当初は「凹んだへところに隈取り」だったものが、のちに「出っ張ったところに隈取り」に変化する、という指摘はとても面白い。そして、最終的に中国絵画は、面的グラデーションでなく、線によって立体を表現する方法にシフトする。これが、のちに山水画では「皴法(しゅんぽう)」として現れてくる。なるほど、日本絵画の場合はどうなのだろう。やっぱり「面」が先?
唐代後半には、のちの中国絵画に大きな影響を与える、「逸品」と「人格主義」という二つの発想が生まれる。「逸品」というのは、「神品」「妙品」「能品」という三段階のランクを外れた「基準外」が元来の意味だった。三品が「線による表現の評価」であるのに対し、「逸品」は、線によらない「溌墨」や「破墨」の技法を評価したものだという。なるほど~生噛りしていた用語が、きれいに整理できた。
中国の文化は中唐に大きな転換期があったと考えられるが、その頃の作品があまり残っていないため、変化を感じ取れるのは、五代(10世紀)から宋(10-12世紀)になる。荆浩(けいこう)・関仝(かんどう)の屹立する「華北山水」は、李成、范寛、郭煕というピークを迎える。李成の「平遠」、范寛の「高遠」、郭煕の「深遠」という「三遠」の理論。こういう数によるまとめ方は、いかにも中国人の思考らしい。
一方、董源・巨然の平淡な「江南山水」(南方山水)は、北宋末から南宋にかけて、米芾(べいふつ)・米友仁に受け継がれる。また、胸中の風景を描く文人画、小景画、緻密な絵画(清明上河図)など、多様な作品が現れる。
南宋(12-13世紀)の中心を占めるのは院体画。北宋の郭煕を受け継ぎ、以下、元代李郭派(13-14世紀)、明代院体画(14-17世紀)、明代浙派と「世界の気(大気)」を描き続ける。一方、宋代の文人画は「形そのものによる作者(の気)の表現」として、元末四大家、明代呉派、明代後期の奇想派、清朝絵画(新しい形の創造の模索)へ繋がっていく。そして、郭煕以来の「大気感」は、浙派の衰退・呉派の隆盛とともに、その存在を消してしまう。
本書のように、時代順、流派(スクール)別に整理してみると、今までごちゃごちゃに見て来た作品が、あらためて「似たものどうし」整理できることに納得した。当たり前すぎて間抜けな感想だが、宋代の山水画と明代の山水画って、全然ちがうものなんだな。そして、董其昌(とうきしょう)と明代の「奇想派」の山水は面白い。大好きだ。曾我蕭白とか、絶対影響を受けていると思う。
それから、南宋の天才画家・牧谿(もっけい)をレンブラントと比較し、レンブラントの絵画は「光が当たっている」したがって「影のある」作品であるのに対し、牧谿の作品では「(空)気そのものが輝いている」というのは、思わず膝を打ちたくなる表現だった。