見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

夏の夜の殺人劇/文楽・女殺油地獄

2014-07-23 22:25:30 | 行ったもの2(講演・公演)
国立文楽劇場 夏休み文楽特別公演 第3部サマーレイトショー『女殺油地獄(おんなころしあぶらのじごく)』(2014年7月19日、18:00)

 自分のブログ検索をかけたら、平成17年(2009)にもこの演目を見ていて、与兵衛を桐竹勘十郎、お吉を桐竹紋寿とメモしている。すっかり忘れていた。やっぱり初見の、与兵衛を吉田蓑助、お吉を吉田玉男という舞台の印象が強烈すぎるのである。蓑助さんの与兵衛は、愛情過多な両親に甘やかされて育ったダメ青年で、ギリギリまで人殺しなんて大それたことができる器に見えないのだが、覚悟を決めて、刀を抜いた瞬間に、別人のような凄みが備わった。その変貌ぶりが怖かった記憶がある。

 それに比べると、勘十郎さんの与兵衛は、登場した矢先から、今にも悪事をしでかしそうな、危ういオーラを感じた。配役するなら、妻夫木聡なんかどうだろう。ツイッターで「勘十郎さんの顔つきが剣呑すぎる」という評があって、苦笑してしまった。確かに。私は、出遣いは気にならないほうだが、人形遣いがあんまり役柄への感情移入を顔に出すのはよくないと思う。もっと飄々としていてほしい。

 吉田玉男さんのお吉は、死に瀕した悶え方が妙に色っぽかったと記憶する。本公演のお吉は吉田和生さんで、実直な酒屋の女房としては、こちらのほうがリアリティがあるかもしれない。

 初見のときは覚えていないが、平成17年(2009)も「豊島屋油店の段」の語りは咲大夫さんだった。咲大夫さんは「主人公、与兵衛にはみずみずしい若さが必要」という自説から、『女殺油地獄』は今回を「語り納め」にするという。御年70歳。ええ~何かもったいない感じがするが、少ない上演機会で後進を育成するには、こういう態度も必要なのだろうな。初日から三味線の鶴澤燕三さんが休演で、清志郎さんが代役だったので、えっと思ったが、特に問題はなかった。でも働き過ぎには注意してほしい。東京公演と大阪公演が4回ずつ、その合間に地方公演って、いまの文楽技芸員の小所帯には少しハードすぎないだろうか。

 この日は「徳庵堤の段」「河内屋内の段」「豊島屋油店の段」「同 逮夜の段」の構成。初見のときは「逮夜の段」がなくて、まるで『羅生門』の「下人の行方は誰も知らない」的な結末に唖然としたような記憶がある。他人のつぶやきによると、平成17年(2009)公演には「逮夜の段」があったようだ。与兵衛の袷に酒を吹きかけると血の跡が浮かび上がる演出で、あ、これ見た、と思い出した。ちょっと聴き逃しがちだが、与兵衛の独白に、放埓の限りを尽くしても盗みだけはしなかったが、「不孝の科、勿体なし」(支払いが遅れては両親に迷惑がかかる)という焦りから、殺人と盗みを犯してしまった、という悔恨が哀れを誘った。

 今回は床の真下、前から3列目の好ポジションで、目は舞台の人形を追いながら、耳は降り注ぐ音曲に全身全霊を集中。楽しかった。開演前、制服姿の高校生(?)の集団(女子率高し)を見たので、これはうるさいに違いない、と不運を恨んでいたが、思ったより熱心に観劇している様子だった。こんなムゴい芝居を見せていいのか?と思ったが、内容を分かった上での選択なら、先生を褒めたい。

 大夫と三味線奏者の方々は、そろって白いお着物で夏らしかった。これは大阪の夏休み公演でしか見られない風物詩だろう。開演前に、ずっと気になっていたお店でたこ焼きも食べたし、黒門市場も歩けたし、泊まりも徒歩圏のビジネスホテル。だんだん大阪になじんできた。
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2014年7月@関西:蓮-清らかな東アジアのやきもの(大阪市立東洋陶磁美術館)

2014-07-23 21:02:08 | 行ったもの(美術館・見仏)
大阪市立東洋陶磁美術館 特別企画展『蓮-清らかな東アジアのやきもの×写真家・六田知弘の眼』(2014年4月12日~7月27日)

 天王寺の大阪市立美術館から地下鉄で移動。淀屋橋駅の出口を地上に出ると、あやしい黒雲がむくむくと湧いてきて、私が美術館に走り込んだ直後に、ざっと一雨通り過ぎていった。アジアらしい夏の天気だと思った。

 本展は「東アジアのやきものに咲く蓮の文様に焦点をあて(略)館蔵品64点によって紹介」とあるが、企画展示室にあったのは、せいぜい20点ほどだったと思う。その中で、私の注意をひきつけたのは、中国・北宋時代の『白磁刻花蓮花文洗』。まず大きい。いったい何を入れたのだろう、それこそ水蓮を浮かべたのかしらと思ったが、「洗」とは、汚れ水を捨てるための器だという。それをこんな美しい白磁でつくり、しかも「濁りに染まぬ」蓮葉の文様を刻んでみせるなんて、にくい演出。スピード感のある闊達な線で描かれた蓮の花が、歌い踊り出しそうな愛らしさ。

 朝鮮時代の『青花辰砂蓮花文壺』は、この展覧会のシンボル的存在となっている。「青花」というほど濃い青でなく、「辰砂」というほど濃い赤ではない、ぼんやりした色彩が朝靄に浮かぶ静謐な蓮の花を思わせる。

 元代の『青花蓮池魚藻文壺』は大好きな作品だが、いつも魚と水草ばかり目に焼き付いていたので、蓮の姿を気にしたことがなかった。蓮花文が正面に来るように置かれていて、新鮮な感じがした。

 展示ケースの中には、六田知弘氏が撮影した「蓮」の写真パネルも飾られていた。カラーだったり白黒だったり、蓮の部分だったり全体だったり、人の手が添えられていたり、わざと幾何学的な構図に切り取られていたり。不思議なもので、陶磁器を見るとき、こういう「取り合わせ」はあまり邪魔にならない。茶掛けの書画と同じで、お互いを引き立てあっているように見える。

 企画展示室を出たあとの韓国陶磁室でも「蓮」の写真とコラボレーションが続いていた。青磁や粉青の文様のあちこちに、蓮の花はひそんでいるのだが、日常的に蓮を見る機会の減った現代人には、それを「蓮」と認識することが、なかなか難しいように思う。周敦頤の『愛蓮説』に云う、「菊は華の隠逸なる者なり。牡丹は華の富貴なる者なり。蓮は華の君子なる者なり」。私は蓮も好きだが牡丹も好きだ。菊は、今のところ、まだ良さがよく分からない。現代日本の菊は、園芸用に改良が進み過ぎてしまったからもしれない。
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