見もの・読みもの日記

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原子力国家をめぐって/ネグリ、日本と向き合う(アントニオ・ネグリ他)

2014-07-17 21:52:02 | 読んだもの(書籍)
○アントニオ・ネグリ他『ネグリ、日本と向き合う』(NHK出版新書) NHK出版 2014.3

 ネグリ&ハートの『帝国』(2003)『マルチチュード』(2005)が刊行された当時、読みたいと思いながら、難しそうな気がして(使われている概念をきちんと理解できる自信がなくて)結局読んでいない。同書の入門として、まず本書を読んでみることにした。

 本書は、2013年4月に来日したネグリが出席したシンポジウムと講演会の記録である。4月6日、日本学術会議社会学委員会メディア・文化研究分科会と国際文化会館が共催したシンポジウムに出席し、4月12日には国際文化会館主催の講演を行った。

 本書では順序を逆にし、まず4月12日の講演が「グローバリゼーションの地政学」のタイトルで収められている。ネグリは『帝国』(原著、2000)において、今や世界は「国民国家の再建とその改良主義的な運営によって(略)グローバル化した階級間の関係を構造的に修正することが可能であるとする幻想は、決定的に無価値なものになった」ことを示し、多くの批判を浴びた。ううむ、いまの日本政府の浮足だった「グローバル」大合唱の中に、こういう悲観的な認識は、共有されているだろうか。いないんだろうな。二作目の『マルチチュード』と三作目の『コモンウェルス』を参照しながら、ネグリは、ヨーロッパ、ラテンアメリカ、太平洋地域、そして日本の危機と再建の可能性について語る。

 これに対して、姜尚中が「応答」を行い、対話に入る。正直なところ、ネグリの講演は単独で読むにはかなり難しくて、姜氏が東アジアの現実に即した「読解」を示してくれたことで、ようやく理解できた。「帝国」が、いわゆる帝国主義国家のことではなく「ナショナル、トランス・ナショナル、ノン・ナショナルな、さまざまなアクターの交渉・構成に基づく異種混交的な世界統治のシステム」を比喩的に述べたものであることも。

 しかし、東アジアの各国が相変わらずナショナリズムに捉われ、「帝国」の段階に移行しないのはなぜか。「国民国家というのは古い左翼(※右翼ではない)の考えと結びついているものです」というネグリの発言をチェック。また、姜氏は、ネグリの提唱する「原子力国家」という概念について、原子力は、純粋にエコノミーやエネルギーの問題ではなく、国家主権と密接にかかわっていると分析する。ネグリが、原子力国家とは「国民国家という古い概念のヴァリエーション」であると応答し、「原子力と民主主義は両立しえない」と確信的に述べているのが印象深かった。

 この「原子力国家」の問題は、次の(実際は先行した4月6日の)講演「3.11後の日本におけるマルチチュードと権力」のほうに詳しい。「原子力国家」とは、政策全体の基礎を、原子力の活用と、それが意味する重大な社会リスクの上に据えた国家である(※省略しているが、本文の説明はもう少し親切)。そして原子力国家は、「下からの」デモクラシーを求める人々「マルチチュード」に対して、権力の委譲を強く拒んでいる。

 「マルチチュード」は群衆ではない。コミュニケーションと協働ネットワークを基盤に「コモン」を構築することができる人々のことである。「コモン」もネグリのキーワードのひとつで、「公」と「私」の二分法を超えた「共」の次元を指す(と三浦信孝氏の親切な訳注にいう)。「コモン」も最近の政府や言論が愛好する言葉のひとつだが、日本では「公」に引きずられている感じがする。

 これに対して、市田良彦、上野千鶴子、毛利嘉孝の応答が続き、さらに帰国後のネグリによる「日本から帰って考えたいくつかのこと」(2013年9月)が収められている。相当数の日本人が、フクシマの事故の重大性を忘れて、浮かれた日常に戻りつつある中で、ネグリの思索が「フクシマ」と「原子力国家」の周辺を、執拗に、舐めるようにめぐり続けていることには、何というか、考えさせられた。いま「日本に向き合う」というのは「フクシマに向き合う」「原子力に向き合う」ということをおいてほかにないことを、あらためて胸に刻んだ。

 最後に白井聡と大澤真幸の論考を添える。大澤の「原発を放棄するためには、原子力にそのような枢要な位置を与える信仰の体系の全体を乗り越えなくてはならない。その信仰の体系とは、結局、資本主義である」というのは、突拍子もない発言に見えて、ここまで読んでくると腑に落ちるものがあった。
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