〇羽田正『グローバル化と世界史』(シリーズ・グローバルヒストリー 1) 東京大学出版会 2018.3
東大出版会が「シリーズ・グローバルヒストリー」という叢書の刊行を始めたらしい(※シリーズ構成)。本書はその第1巻にあたり、「グローバルヒストリー」とは何かという概念整理が行われている。
はじめに我が国の人文学・社会科学をとりまく環境について語られる。近年、強い批判にさらされている印象のある人文学・社会科学であるが、早くも2001年には文科省の科学官(有識者)が「人文・社会科学振興のための国際化への対応について」というメモを出している。第5期学術分科会の報告書(2009年)は「人文学・社会科学の国際化」に言及し、第6期学術分科会の下に設けられた「人文学・社会科学の振興に関する委員会」の報告書(2012年)は、はじめて「グローバル化」という概念を用いた。以下、まだまだ続くが、結局のところ、10年以上経っても、文科省が望む「国際化」は進んでいない。
端的に言って、文科省や学術振興会は、英語で研究成果を発表することを「国際化」と考えている。しかし、これは、西洋中心主義を無意識に受け入れた態度に発している。そもそも人文学・社会科学に国際化は必要なのか、国際化は可能なのか、という問題について、著者は周到な議論を展開する。途中を省略するなら、文系学問は、使用する言語によって異なる暗黙知を前提にしており、翻訳は容易でない。「現代の世界には、異なった言語による異なった立場に立つ知の体系が多数多元的に存在」している。これが文系学問の特徴なのである。もちろん、これからの文系研究者が一つの言語に留まっていいというわけではない。日本語の教養を背景に組み立てた研究を、どのような外国語でも表現できるように自らを鍛えなければならない(高い目標!)。英語での発表はその手始めでしかない。
また、従来の人文学・社会科学は、国家を基本的な枠組みとして研究を進めることが一般的だった。これは、近代学問としての人文学・社会科学が、19世紀半ば以降の主権国家の形成と発展と歩調を合わせてきたことによる。しかし、現実の人間の営みは必ずしも国家という枠の中でのみ行われているわけではないので、現代世界の諸問題を解決しようとする人文学・社会科学において、国家という枠組みは相対化されるべきである。こうした新しい人文学・社会科学を、著者はグローバル人文学、グローバル社会学と呼ぶ。ああ、羽田先生、相変わらずで嬉しい。かつて感銘を受けた『新しい世界史へ』(2011年)の思想を深化、先鋭化させていらっしゃる。一方で、人文学・社会科学と違って「普遍」に近いはずの理系研究者に、国家・国益という枠組みにとらわれる人が多いのはどうしてなんだろう、と思った。
後半は、上述のグローバル人文学の一例として「グローバルヒストリー」を考える。はじめに日本語の「世界史」と「グローバルヒストリー」、英語の「global history」「world history」という用語が持つ、微妙なズレが探求されていて面白い。著者は、私たちが目指すべき新しい世界史(グローバルヒストリー)は「地球の住民」(residents of the Earth)のための世界史だという。かつて国民のための歴史叙述(ナショナルヒストリー)が、国家・国民意識の形成に貢献できたとすれば、地球の住民意識の形成に役立つ世界史もあり得るはずだという。この発想は未来志向で、とっても好きだ。
そして、グローバルヒストリーの具体的なイメージとして、「1700年」「1800年」「1900年」「1960年」という4つの時点における世界の見取り図を提示する。さらに4枚の見取り図を現代と比較することにより、われわれが生きる時代の特徴が明らかになる。しかし、これはあくまでグローバルヒストリーの一例でしかないだろう。著者も終章で述べているように、実際の研究者たちは、もう少し限定的な地域とテーマで、人々の接続と断絶、交流と統合を論じていくことになるのだろう。本シリーズ各巻の内容もそうなるはずだ。しかし「その背後に必ず世界を意識している」という著者の力強い断言が楽しみである。ちなみに本書は、どこをひっくり返しても、シリーズ各巻の内容情報が見当たらないので、おかしいと思ったが、読み終えて書店のカバーを外したら、オビの裏側に掲載されていて、拍子抜けした。
※参考:新しい世界史/グローバル・ヒストリー共同研究拠点の構築(著者の所属先・東大東洋文化研究所による)
東大出版会が「シリーズ・グローバルヒストリー」という叢書の刊行を始めたらしい(※シリーズ構成)。本書はその第1巻にあたり、「グローバルヒストリー」とは何かという概念整理が行われている。
はじめに我が国の人文学・社会科学をとりまく環境について語られる。近年、強い批判にさらされている印象のある人文学・社会科学であるが、早くも2001年には文科省の科学官(有識者)が「人文・社会科学振興のための国際化への対応について」というメモを出している。第5期学術分科会の報告書(2009年)は「人文学・社会科学の国際化」に言及し、第6期学術分科会の下に設けられた「人文学・社会科学の振興に関する委員会」の報告書(2012年)は、はじめて「グローバル化」という概念を用いた。以下、まだまだ続くが、結局のところ、10年以上経っても、文科省が望む「国際化」は進んでいない。
端的に言って、文科省や学術振興会は、英語で研究成果を発表することを「国際化」と考えている。しかし、これは、西洋中心主義を無意識に受け入れた態度に発している。そもそも人文学・社会科学に国際化は必要なのか、国際化は可能なのか、という問題について、著者は周到な議論を展開する。途中を省略するなら、文系学問は、使用する言語によって異なる暗黙知を前提にしており、翻訳は容易でない。「現代の世界には、異なった言語による異なった立場に立つ知の体系が多数多元的に存在」している。これが文系学問の特徴なのである。もちろん、これからの文系研究者が一つの言語に留まっていいというわけではない。日本語の教養を背景に組み立てた研究を、どのような外国語でも表現できるように自らを鍛えなければならない(高い目標!)。英語での発表はその手始めでしかない。
また、従来の人文学・社会科学は、国家を基本的な枠組みとして研究を進めることが一般的だった。これは、近代学問としての人文学・社会科学が、19世紀半ば以降の主権国家の形成と発展と歩調を合わせてきたことによる。しかし、現実の人間の営みは必ずしも国家という枠の中でのみ行われているわけではないので、現代世界の諸問題を解決しようとする人文学・社会科学において、国家という枠組みは相対化されるべきである。こうした新しい人文学・社会科学を、著者はグローバル人文学、グローバル社会学と呼ぶ。ああ、羽田先生、相変わらずで嬉しい。かつて感銘を受けた『新しい世界史へ』(2011年)の思想を深化、先鋭化させていらっしゃる。一方で、人文学・社会科学と違って「普遍」に近いはずの理系研究者に、国家・国益という枠組みにとらわれる人が多いのはどうしてなんだろう、と思った。
後半は、上述のグローバル人文学の一例として「グローバルヒストリー」を考える。はじめに日本語の「世界史」と「グローバルヒストリー」、英語の「global history」「world history」という用語が持つ、微妙なズレが探求されていて面白い。著者は、私たちが目指すべき新しい世界史(グローバルヒストリー)は「地球の住民」(residents of the Earth)のための世界史だという。かつて国民のための歴史叙述(ナショナルヒストリー)が、国家・国民意識の形成に貢献できたとすれば、地球の住民意識の形成に役立つ世界史もあり得るはずだという。この発想は未来志向で、とっても好きだ。
そして、グローバルヒストリーの具体的なイメージとして、「1700年」「1800年」「1900年」「1960年」という4つの時点における世界の見取り図を提示する。さらに4枚の見取り図を現代と比較することにより、われわれが生きる時代の特徴が明らかになる。しかし、これはあくまでグローバルヒストリーの一例でしかないだろう。著者も終章で述べているように、実際の研究者たちは、もう少し限定的な地域とテーマで、人々の接続と断絶、交流と統合を論じていくことになるのだろう。本シリーズ各巻の内容もそうなるはずだ。しかし「その背後に必ず世界を意識している」という著者の力強い断言が楽しみである。ちなみに本書は、どこをひっくり返しても、シリーズ各巻の内容情報が見当たらないので、おかしいと思ったが、読み終えて書店のカバーを外したら、オビの裏側に掲載されていて、拍子抜けした。
※参考:新しい世界史/グローバル・ヒストリー共同研究拠点の構築(著者の所属先・東大東洋文化研究所による)