見もの・読みもの日記

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失敗続きの30年/平成時代(吉見俊哉)

2019-07-16 22:36:19 | 読んだもの(書籍)

〇吉見俊哉『平成時代』(岩波新書) 岩波書店 2019.5

 吉見先生(1957-)は私とほぼ同世代だから、昭和の末期に大人になり、平成時代は第一線で働き続け、学者のキャリアパスは一般の勤め人とは違うかもしれないが、そろそろ後進に道を譲る機会が増えてきた世代だと思う。気力体力も充実し、人生において最も実り多かったはずの30年間を、日本の「失敗」の時代としてシビアに総括するのは、なかなか辛い。読んだ私も辛かった。

 著者によれば、平成の30年は日本の段階的な衰退過程であり、その過程は4つの「ショック」によって拍車がかけられた。(1)1989年に頂点を極めたバブル経済の崩壊、(2)1995年の阪神・淡路大震災とオウム事件、(3)2001年のアメリカ同時多発テロと国際情勢の不安定化、(4)2011年の東日本大震災と福島第一原発事故である。本書は、4つの「ショック」を起点に平成時代をI~IV期に区分し、それぞれ特に大きな影響が生じた社会の次元にあわせて「経済」「政治」「社会」「文化」について語ってゆく。

 最も興味深く読んだのは最初の「経済」である。昭和の最末期、私はバブル景気とは全く縁がなかったし、おかげでバブルが崩壊しても何の影響も受けなかった。だから、こうして歴史として解説を読むことで、何が起きたのかをあらためて認識することができた。さらに興味深いのは、その後、日本企業がついに立ち直れなかった理由である。1つは、日本の主要な電機産業がテレビ時代の終焉とモバイル型ネット時代の到来を認識できなかったこと。もう1つは、1990年代からグローバル規模で進んだ水平分業の仕組みに適応できなかったことだという。後者の話は、むかし丸川知雄氏の『現代中国の産業』で読んで、中国式の「垂直分裂」のほうが合理的な気がしたことを思い出した。

 そして徐々に衰退していく日本企業。「国主導で推進されたエレクトロニクス分野のいかなる事業も、大きな成果を生んだことはまずない」「そこには『何が何でも勝つ』という気迫が生まれない」という大西康之『東芝解体』の厳しい指摘が引用されている。私はこれを、半導体メーカーだけの話ではなくて、いまの自分の職場・職種にも置き換えて、寒気を感じながら読んだ。リスクを取ることを避け、ずるずると失速していったNEC。リスクを取ったが、ビジョンを間違えて失敗したシャープ。ビジョンのあったサンヨーはタイミングを間違えた。ソニーも各部門が「身を守ろう」として非協力的になった結果、失敗。「異人」ゴーンにすがった日産は、有能で強力なリーダーを独裁者に転化してしまった(問題の本質は日本の社会にあると著者は考える)。グローバルな世界で勝ち残ることはかくも難しい。自分の職場、というのは国立大学のことだが、結局、どの道をたどっても失敗に行きつくのではないかと思い、ひどく暗澹とした気持ちになった。

 「政治」については、すでに遠いむかしのことだが、昭和から平成への変わり目に起きた「土井たか子ブーム」のとき、社会党は「ヨーロッパの社会民主主義政党のような草の根的な裾野をもったリベラル政党に転身する最後のチャンスがあった」という指摘を興味深く読んだ。逃したチャンスの大きさは、あとにならないと分からないものだ。

 「社会」については、平成初年の連続幼女殺害事件に遡り、80年代に大都市郊外を舞台として爆発的に増殖したメディアの浸透によるリアリティの変容、自己の喪失から語り起こす。このへんは著者の本来の専門分野だろうが、それ以上に衝撃だったのは、超少子高齢化が突きつける事実。出生率の変化が人口構造をはっきり変化させ始めるのは半世紀以上の時差があり、21世紀半ばまで日本の大幅な人口減少はどうやっても変えられない。にもかかわらず、東京は地方の人口を吸い寄せ続ける。21世紀半ばにはこの世を去る世代として、この未来を、いったいどういう顔をして次の世代に託せばよいのか。

 悲劇には未来への希望がある、と著者は「あとがき」に書いているけれど、いまの日本のどこかに、見せかけでない希望はあるのだろうか。老人はどんなにペシミスティックになってもよいが、せめて若者が未来に希望を見つけられる社会であってほしい。

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