〇西野智彦『平成金融史:バブル崩壊からアベノミクスまで』(中公新書) 中央公論新社 2019.4
先だって吉見俊哉先生の新刊『平成時代』の「経済」の章がとても興味深かったので、たまたま目についた本書にトライしてみた。著者は時事通信社の記者やニュース番組の放送プロデューサーをつとめた経歴の持ち主。そのせいか、人物中心のドキュメンタリーの形式で書かれていて、経済オンチの私にも読みやすかった。それから「記録的な冷夏」とか「ワールドカップ初出場を決めた翌日」などの挿入句に触れるたび、このとき自分は何をしていたか、遠い記憶を揺さぶられながら読んだ。
本書は平成の30年を4つのフェーズで記述する。(1)1989-1995:バブル崩壊の衝撃と問題の先送り。(2)1996-1998:金融危機の襲来、大型破綻の連鎖。(3)1998-2005:デフレ発生、竹中プランの出動。(4)2006-2018:脱デフレの果てしなき道、である。
平成元年(1989)はバブルが最高潮に達した年。1990年は株価の暴落で幕を開け、日銀は金融の引き締めを開始する。しかし1991年には未曽有の不祥事が続発、1992年に土地バブルも崩壊し、株価の下落が止まらなくなり、銀行や信用組合の経営危機が表面化する。日銀は金融システムを安定させるため、公的資金を投入しようとするが、銀行の自助努力を重視する大蔵省銀行局に阻まれる。
1996年、橋本龍太郎内閣が発足。国会で住専処理問題で野党の猛攻撃を受ける。まあたぶん私も「安易に公的資金を投入するな」という立場だったろうけど、日本の金融システム全体のために、どちらが正しい判断だったかは分からない。橋本は「日本版ビッグバン」と呼ばれた金融制度大改革を指示。しかし株価は低迷した。1997年、三洋証券の倒産が引き金となり、拓銀が破綻、山一証券が廃業する。
このあたりの記述を読みながら、金融システムというのは、お互い、必要に応じて資金を融通し合うことで成り立っているという基本的なことを学んだ。だから疑心暗鬼で市場が委縮すると、弱い金融機関は資金がショートしてしまうのである。金融危機が極限に達する中、政府は公的資金投入を決断する。
1998年、長銀危機の処理をめぐって金融監督庁と大蔵省が対立したが、官房長官の野中広務が「破綻認定」を決断した。続いて日債銀も破綻。組織防衛に走る銀行の貸し渋りによってデフレ圧力が強まる。株価は急落。円高・ドル安も加速した。そして景気対策として、政府の強い要求により日銀が実施したのが「ゼロ金利」だった。
2000年、日銀はゼロ金利政策を解除したが、米国のITバブル崩壊などの影響で株価が下落し、2001年には実質的にゼロ金利に回帰する。2002年、小泉首相は経済財政担当相の竹中平蔵に対策を指示、不良債権処理を加速するための「金融再生プログラム」が公表される。2003年、日銀総裁に就任した福井俊彦は、政府と協調して、為替介入と量的緩和(金融市場に大量に資金供給をおこなう)政策を実施し、外需主導・輸出依存型の景気回復を後押しした。私は竹中平蔵が嫌いなのだが、不良債権処理と景気回復に一定の貢献をしたことは認めなければならないと思った。しかし、よく読み直すと、竹中よりも福井総裁の貢献のほうが大きい気もする。
2006年、日銀は量的緩和政策の解除のタイミングを見計らっていた。しかし政府の強い反対で頓挫。2008年、米国でリーマン危機が発生し、世界経済を直撃する。さらに大震災、欧州危機と逆風が続く中、白川日銀総裁は「非伝統的手段」の政策を積極果敢に繰り出すが、円高に歯止めがかからず、批判がくすぶり続ける。2012年、自民党総裁に返り咲いた安倍晋三は「無制限の金融緩和もよるデフレ脱却」を掲げ、政権に復帰。円安・ドル高が加速し、株価も急上昇を始める。
白川の「抗議」と見られる辞職後、後任・黒田の「異次元緩和」は、当初、上々の成果を上げる。しかし、黒田バズーカの神通力は次第に弱まり、史上初の「マイナス金利」の評判は散々で、その副作用を懸念する声が強まっているという。
全体を通して、バブル崩壊の巨大なツケに苦しみながら、日本の金融マンはかなり頑張ってきたと思う。特に「日限」という専門家集団には、はじめて親近感と信頼を感じた。しかし気になるのは「日本の失敗パターン」が顕著にあることだ。一度うまくいったことを止める・変えるタイミングを逃して、気が付いたときには手遅れというもので、現在の金融緩和政策もそうなっていないか、よくよく考えてみる必要があると思う。