見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

2019夏休み旅行:なら燈花会、東大寺ほか

2019-08-18 22:57:25 | 行ったもの(美術館・見仏)

大和文華館 特別企画展『福徳円満を求めて-中国 元・明時代の華やかな工芸-』(2019年7月12日~8月18日)

 MIHOミュージアムのあとは、京都を素通りして奈良へ急ぎ、大和文華館に寄り道。鮮やかな色彩と多種多様な文様に溢れた中国元・明時代の陶磁器・漆器・染織を展示する。神話や戯曲を題材にした人物文が多くて面白かった。最後に、意匠からも技巧からも明清の工芸にしか見えない箪笥があって、江戸時代の『鎌倉彫手箪笥』だというのに驚いた。

 そろそろ夕方、奈良へ出て、ホテルにチェックインし、夕食も済ませて散歩に出る。奈良国立博物館の前庭にたくさんの鹿が寝そべって休んでいる。「鹿だまり」と呼ばれてSNSでも話題になっているもの。初めて見た。

 そして、もう少し暗くなると、鹿たちは起き上がって、三々五々グループになって、大仏前の交差点を渡って、春日野のほうへ消えていく。交差点がカオスになっていて面白かった。

 交差点を斜めに渡った浮雲園地から奈良春日野国際フォーラムあたりが「なら燈花会」の本部会場。南に下って、浮見堂に行ってみる。このあたり、何年ぶりだろう? いつも来てみようと思いながら足が向かずにいた。

 浮見堂から人の流れに従って、猿沢池方面へ向かう。全く歩いた記憶のない道(こんなに奈良に来ているのに)で、暗闇の中できょろきょろしていたら「江戸三」「四季亭」の灯りが見えた。ああ、大人になったらこういう高級旅館に泊まろうと思っていたのに、一向にその機会がないなあ…。

 翌朝(8/13)は東大寺へ。朝の涼しいうちに境内を歩こうと思ったのだが、ぜんぜん涼しくない。久しぶりに大仏殿を拝観する。昨日、MIHOミュージアムで『紫香楽宮と甲賀の神仏』を見てきたので、いろいろ感慨深いものがある。とにかく大仏が造立できてよかったね、と聖武天皇に呼びかける。大仏殿では、8/15の万灯供養会に向けて灯籠の奉納受付けが行われていて、サンプルとして「奈良花子」「平成二郎」と並んで「大佛次郎」という灯籠があったのは笑ってしまった。

 二月堂、三月堂、戒壇院を参拝。戒壇院はあまりいかないのだが、2日前に筑紫戒壇院に行ったので、あわせて参拝してきた。ここの四天王像は大好きな仏像だが、忘れられているようで気がかりである。二月堂の南東、斜面の上にある飯道神社も見つけて参拝した。看板には「飯道神社(いいみちじんじゃ)」とルビが振ってあった。

 最後に東大寺ミュージアムへ。日光菩薩・月光菩薩が、三月堂の不空羂索観音像の脇ではなく、ここにいることには相変わらず慣れない。昨年秋のリニューアルから、聖武天皇の「大仏建立の詔」が映像で紹介されるようになっているのだが、紫香楽宮で建立するつもりだったんでしょ?と心の中でツッコミながら鑑賞する。

 続きの奈良博は別稿で。

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2019夏休み旅行:紫香楽宮と甲賀の神仏(MIHOミュージアム)

2019-08-18 17:48:36 | 行ったもの(美術館・見仏)

MIHOミュージアム 2019年夏期特別展II『紫香楽宮と甲賀の神仏-紫香楽宮・甲賀寺と甲賀の造形-』(2019年7月27日~9月1日)

 8世紀半ば、聖武天皇によって甲賀の地に離宮として営まれ(一時は都となる)、大仏の造像も発願されたが、短期のうちに放棄されるなど、謎の多い紫香楽宮(信楽宮)。本展では、近年の発掘調査の成果と、甲賀の地に伝わった豊かな宗教文化を紹介する。前半が主に考古遺物、後半が仏像・神像など美術工芸品中心だった。

 はじめに紫香楽宮造営に先立つ聖武天皇の行動が地図上に表現されていて、このひとは面白いなあと思ってしみじみ眺めた。天平12年(740)に藤原広嗣の乱が起きると、平城京を抜け出して伊勢行幸に出立し、伊賀、伊勢、不破から琵琶湖の東岸・南岸をまわって1ヶ月余り、ようやく恭仁京に落ち着く。恭仁京の造営と並行して紫香楽宮の造営も進め、かと思うと難波京に移り、4年半にわたる遷都の繰り返しの末、結局、平城京に戻ってくる。ちょっと呆れるが、東アジアの伝統にのっとった古代の帝王らしい振舞いだとも言える。宮城の場所を決めるのは、帝王の大事な仕事なのだから。

 その紫香楽宮跡はMIHOミュージアムから東へ8kmくらいの距離にあり、「内裏野(だいりの)」と呼ばれていた地区が宮跡と考えられていたが、北部(新名神高速道路の北側)の宮町地区で2000年に長大な建物の遺構が見つかり、紫香楽宮の中心部であったことが確定した。

 出土文物の中では一番印象的だったのは、北黄瀬遺跡(内裏野地区の北西、宮町地区の南西)で発見された巨大な井戸枠。一辺2メートルを超える板材(上下2段)を四角形に組み、鉄釘で留めている。あまりに立派なので、復元品?と思ったらホンモノだった。しかも屋根と洗い場が設けられていたとか、地下水を堰き止めて水位を保つ工夫がされていたとか、驚くことばかりだった。鍛冶屋敷遺跡(内裏野地区の北東)出土の梵鐘内型は、一部から全体を「復元」したものらしかったが、高さ180cm、直径130cm以上あり、東大寺の梵鐘に次ぐ規模だという。周辺からは、ほかにも鋳型片や銅塊・鉄塊が出土しており、最新設備の官営工房があったことをうかがわせる。こういう当時の技術水準をうかがわせる出土品は、正倉院文物などの美術工芸品とは、また別のワクワク感があってよい。

 文化史的に超重要な遺物としては「なにはづに/あさかやま」の歌木簡をたぶん初めて見た。1997年に宮町遺跡で出土した「なにはづに」木簡の裏面に「あさかやま」の歌が書かれていることが10年後の再調査で明らかになり、2008年に発表されたもの。展示では「なにはづに」が見えるように置かれていた。途中が切れて2文字ほど欠落した木簡なのだが、これが「なにはづに」の和歌だと分かった研究者はえらいなあ。まして裏側は「あさかや」「るやま」(全て万葉仮名)しか残っていないのに。なお「歌一首」と墨書された土器片もあった。

 紫香楽宮の中心部が宮町地区にあったとして、内裏野地区は何だったのか。礎石の配置から寺院跡であったことは明らかだが、近江国分寺とみるか甲賀寺とみるか。近江国分寺と甲賀寺はどのような関係になるかなど、まだ課題が残されているそうだ。以上は、ミュージアムショップで販売されていた20頁ほどの冊子『天平の都と大仏建立-紫香楽宮と甲賀寺- 改訂版』(200円?)を参考にした。編集発行元の甲賀市教育委員会さん、いいお仕事をされているなあ。感服。

 さて聖武天皇は紫香楽宮で大仏造立の詔を発し、甲賀寺に大仏の「体骨柱」を立てたことが記録に残されている。また紫香楽宮が放棄されたあとも甲賀寺には官営の造仏工房があったと考えられており、その伝統が近江の神仏像に影響したというのが本展後半のメッセージである。

 石山寺の『塑像金剛蔵王立像心木』は前回どこで見たのだったか。異形すぎる仏像(心木だけだし)だが、とても好きなもの。櫟野寺からは吊り目でキリっとした顔立ちの観音さま2躯、立て衿の地蔵菩薩立像などがいらしていた。堂々と量感のある薬師如来立像(平安時代)は甲賀市の阿弥陀寺から。昨年、櫟野寺のご開帳に行ったとき、足を伸ばしたが、ご住職不在で拝観できなかったお寺だ、と思い出した。粟東市の金勝寺の木造毘沙門天立像は、派手さはないが静かな迫力がにじみ出る巨像。金勝寺からは、地蔵菩薩立像、僧形八幡神坐像、多数の神像も来ていた。金勝寺の名前はずっと気になっているのだが、公共交通の便がよくないので、なかなか訪ねる決心がつかない。

 甲賀市・飯道寺(はんどうじ)の木造十一面観音立像は、たおやかで優美・繊細。12世紀の作だが平安初期の古像をモデルにしたのではないかという推測されている。飯道寺は飯道神社の神宮寺で、飯道神は東大寺別当実忠によって東大寺に勧請されたともいわれる。奈良と近江の結びつきは深いとあらためて感じた。

おまけ:館内でもらえる「聖武天皇 人生スゴロク」(どうしても大仏を造りたかった!)。ときどき笑っていいのか困るコマもある。ゴールは「752年、大仏法要」。

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