〇広田照幸『教育改革のやめ方:考える教師、頼れる行政のための視点』 岩波書店 2019.9
本書が主題とする「教育改革」とは、日本の学校教育に関する最近の動同のことである。私は、大学改革については、かなり身近に感じてきたが、子どもがいないので、小中高の学校教育をめぐる動きについては知ることが少なかった。近年(最も長いスパンで言うと直近の30年間)、日本の学校教育がどのように変わってきたか、あらためて学ぶことができた。
はじめに「この30年間の日本の教育はおびただしい教育改革の嵐でした」というまとめがある。あるアメリカの教育史家は、公教育の社会的目的には「A. 民主的平等(有能な市民をつくる)」「B. 社会的効率(有能な労働力をつくる)」「C. 社会移動(個人の社会的地位向上)」の3つがあると考える。1980年代までの日本の教育は、Cの面が強く、Bの面でも一定の成功を収めた。しかしAの面は弱かった。90年代以降は、ABCそれぞれに争点が生まれ、複雑な対立が形成された。ところが、2000年代に入ると、官邸主導の名の下に性急で乱暴な改革が次々に実行されるようになった。
教育改革を推進する側には「日本の公教育はダメになっている」という思い込みがある。確かに国際比較では、日本の子どもたちの学習意欲は低く、勉強時間も短いが、それでも上位の成績を上げているのだから「日本の学校はよくやっている(教員の数も少なく予算もないのに)」というのが著者の評価である。日本の大学教育についても、同じように考えるべきではないだろうか。
著者は、ただでさえ余裕のない学校の現場を競争や評価で追いつめても、何もよくならないと考える。大事なのは、教員に余裕を与え、教員自身が「深い学び」を継続的に経験する機会を用意することだ。「常に刺激的な学習体験をしている人が、生徒にもそれを教えられるのだ」という提言は、理想的に過ぎるだろうか。でも私はこの理想を信じたい。
著者は、このことを政府の審議会や町村教育長の研修会などで、繰り返し訴えている。特に、本当は1984年に中曽根内閣が「個性重視」を打ち出したときに抜本的に教員数を増やす必要があったという点は、繰り言のようだけど何度でも言っておくべきだろう。同じ失敗を繰り返さないために。
教員の養成と資質向上について語った文章も面白かった。「教職コアカリ(コアカリキュラム)」の問題点も少し分かった。諸改革の根底にある「一つの望ましい教員象を描くことができる」という考え方に著者は疑問を呈する。現実には、それぞれに固有の長所を持つ多様なタイプの教員が協働することで、学校はうまく回っているのだ。この指摘は共鳴できるもので、教員以外の職業についても「望ましい〇〇像」を設定しがちなことを反省した。しかし、多様な集団と言いながら、実は似通ったタイプが偏在していて、必要なフィールドが埋められない場合はどうすべきか(人員の入れ替え?再教育?)、著者に聞いてみたい気もした。
公立の小中高の教員へのアンケートで「教員としての実践的指導力」や「生徒指導についての専門的力量」がいつ身についたかという設問に対し、最も多い回答が「10年以上たってから」なのは興味深かった。これは若い教員の励みになる調査じゃないかなあ。私は、かつて高校の教員をしていたことがあるが、10年我慢できずに辞めてしまった。このアンケート結果を見ていたら、もう少し教師業を続けていたかもしれない。
教員の育成に関して、アクティブ・ラーニングを自分のものにするには「AL早わかり本」ではなく、たとえばデューイなどの原理的な専門書をしっかり読むことが必要だという提言にも深く共感する。いまの教育改革は「実践型のカリキュラム」「現場の知」を推奨しすぎて、本来、大学教育が提供する「現場から距離をとった原理的なもの」がそぎ落されてしまっているという。
それから、あまり大きな論点ではないのに妙に心に残ったのは、教育関係者の「なすべきこと」として「教育法規を読みこなすこと」が重要だ、というアドバイス。そうなのだ。法規や規則を知ることで、自分がどこまで自由に振舞えるかを確認することができる。私は最近になって、もっと若いうちから自分の仕事に関係する国の法規や職場の規則を読み込んでおくべきだったと後悔しているので、著者のアドバイス、ぜひ若い人たちに届いてほしい。