〇劉慈欣;大森望、泊功、齊藤正高訳『円:劉慈欣短編集』(ハヤカワ文庫) 早川書房 2023.3
『三体』の劉慈欣の短編集。1997年に発表されたデビュー作『鯨歌』から2014年の『円』まで13編を発表順に収録する。豪華なクルーズ船に乗った謎の西洋人たちが登場する『鯨歌』は、普通の短編SFという感じ。1999年の『地火(じか)』、2000年の『郷村教師』は、舞台が近現代中国の辺境に設定されていて、劉慈欣らしさが濃厚である。典型的(≒通俗的)なSFらしさ(科学的・進歩的・未来的)から最も遠い、永遠に続く貧困と停滞の世界にSFが接続するところが、このひとの小説の魅力の一つではないかと思う。
『栄光と夢』は、アメリカ合衆国とシーア共和国の戦争の代替手段として、両国のみが参加するオリンピックが開催されるという皮肉な物語。この競技大会は、ビル・ゲイツの発想に由来する「ピース・ウィンドウズ・プログラム」と国連により挙行される(ビル・ゲイツが、国家間の戦争をデジタル・シュミレーションに置き換えことで、リアルな戦争を撲滅するプログラムを開発しようとした、というのは、さすがにフィクションだよな、と思いながら調べてしまった)。しかし、シーア共和国の選手たちは、長い経済封鎖がもたらした飢餓と病気で、すでにアスリートとして最低限の肉体さえも失っており、連戦連敗を重ねる。女子マラソンに出場した少女シニは、憧れだったアメリカ選手のエマに、命を削って肉薄するが、最後は敗北してゴールと同時に息絶える。IOC会長はアメリカ選手団の勝利を宣言するが、同時に、両国の軍事戦争の火蓋が切られたことが告げられた。敗北すると分かっていても、シーア共和国は「最後まで走ろう」と決めたのである。
本作は、2003年のイラク戦争(第二次湾岸戦争)勃発の直前に書かれたというが、読んでいると2023年現在のリアルな国際情勢がちらついて、胃が痛くなるような物語だった。劉慈欣は女性を描けない作家と言われているが、本作の主人公シニは可憐で印象的だった。まあ女性でなくて少女だからかもしれない。
『円円のシャボン玉』の主人公・円円(ユエンユエン)も変わり者だが魅力的な女の子(結末では中年女性?)だと思う。円円の両親は、大西北の緑化を志して砂漠地帯に移住した科学者夫婦。しかしママは研究中の飛行機事故で亡くなってしまう。パパは絲路市の市長となって市民のために尽力する。成長した円円は、ナノテクノロジーで博士号を取得し、起業にも成功して巨万の富を得るが、シャボン玉の研究に没頭し、絲路市に投資してほしいというパパの頼みには耳を貸さない。「あたしは自分の人生を生きたいの」という円円だったが、その子供のような夢から生まれた巨大シャボン玉が、海上の湿った空気を大西北に輸送する「空中給水システム」の実現に寄与することが判明する。
これは珍しくハッピーエンドな作品でほっこりした。課題解決のイノベーションは、往々にして、軽はずみで自分勝手な研究から生まれるというのはうなずける気がする。また、『天下長河』とか『山海情』などのドラマにも描かれた、中国人と自然環境の長い闘いの歴史を思い出した。
『円』は小説『三体』で有名になった、始皇帝の人海戦術コンピュータが登場する作品で、私は『三体』より先にSFアンソロジー『折りたたみ北京』でも本作を読んでいる。初読のときは、単純にその発想を面白がったが、今回は冷え冷えした読後感を持った。【ネタバレ】すると、始皇帝と刺客の荊軻は燕王によって一緒に処刑されるのである。太陽と月がともに輝く空の下で。
私は1970~80年代には、英米の古典的なSFをそれなりに読んでいたが、今はすっかり離れてしまった。陰に陽に現れるマチズモが好きでなかったのが一因のような気がするが、劉慈欣の作品にはあまりそれがないのが好ましい(むしろ敗北する男たちばかりである)。あと、大森望さんをはじめとする翻訳者グループの日本語が、私の好みに合うのかもしれない。