○渡邉義浩『漢帝国:400年の興亡』(中公新書) 中央公論新社 2019.5
中国の歴代王朝には、好きな王朝と、あまり興味のない王朝がある。漢帝国は、むかしから「好きな王朝」のひとつだと思ってきたが、自分の知識が偏っていて、知らない側面がたくさんあることを実感した。本書は、秦末の動乱に始まり、漢の建国、帝国の確立から、新の建国、光武帝による後漢復興、そして三国志の始まりまで、山あり谷ありの400年の歴史を、わかりやすく魅力たっぷりに叙述する。
やはり心が躍るのは漢帝国の前半の歴史だ。しかし、項羽と劉邦の戦いも、始皇帝の秦(中央集権的な郡県制の採用)→項羽の楚(恣意的な封建制の復活)→劉邦の漢(郡国制=郡県制と封建制の折衷)と整理してみると、英雄叙事詩とは異なる側面が見えてくる。影の薄い皇帝だと思っていた文帝の寛容な治が、民力の休養と経済復興を実現し、次代の繁栄の基礎となったことも興味深い。
漢の武帝は大好き。特に対外拡張政策にかかわった衛青、霍去病、李陵、蘇武、張騫らの逸話は何度読んでも楽しい。また武帝期は、氏族制の解体が完了した時代でもある。武帝以前に儒教経典として最初に権力に接近したのは『春秋公羊伝』(公羊学派)だったが、武帝の曾孫・宣帝は、自分の即位を正統化する根拠として『春秋穀梁伝』(穀梁学派)を重用した。その子・元帝はさらに儒教にのめりこみ、漢帝国が「儒教国家」となり、のちに「古典中国」と仰がれていく内実が、この時期に定まる。その同じベクトルの先に、『周礼』に基づく国家を目指す王莽が現れる。なるほど、王莽の新は、漢帝国に反旗を翻したというよりは、儒教的理想主義を究極まで推し進めた結果なのだな。このへんは、全然、私の知識が足りていなかったので勉強になった。
渡辺信一郎による「古典的国制」の指標をここに書き留めておく。(1)洛陽遷都、(2)機内制度、(3)三公設置、(4)十二州牧設置、(5)南北郊祀、(6)迎気、(7)七廟合祀、(8)官稷(社稷。土地神と穀物神)、(9)辟雍(教育機関)、(10)学官、(11)二王の後、(12)孔子の子孫、(13)楽制改革、(14)天下の号(国家名)。最近の中国ドラマに多い架空の王朝も、こういうのを参照しているのだろうか。もっとコンパクトに、儒教に基づく国家支配の三本の柱は「封建」「井田」「学校」であるというまとめ方も面白かった。「学校」は重要なのだなあ。
王莽の新が財政上の失政から豪族の蜂起(赤眉の乱)を招いて滅亡すると、光武帝・劉秀が後漢を建国する。劉秀も面白いなあ。中国歴代国家の建国者の中でも一二を争う教養人で、自ら軍を率い先頭に立って戦うタイプではないという。しかし、即位後も功臣を殺さず、軍備を縮小し、二百年の太平の礎を築いて、三国志の英雄たちに大きな影響を与えた異色の名君である。光武帝の子の明帝の時代に班超が活躍するのだな。私は、台北の龍山寺で班超のおみくじを引いたことがあるにもかかわらず、このひとの事績をよく知らなかったので興味深く読んだ。
明帝の子・章帝は白虎観会議を主宰し、「古典中国」すなわち「儒教国家」を完成させる。これまで私は、前漢武帝期に儒教の国教化がおこなわれたという定説を信じてきたが、認識を改めた。そして、後漢の班固が著した『漢書』は「古典中国」としてあるべき前漢の姿(聖漢)を描く。『史記』と異なり、史実をゆがめても「正しい」規範を後世に伝えようとする、歴史修正主義の源流のような思想が、すでにこの時期の中国にあることも興味深かった。
やがて漢は動揺し、「古典中国」の限界をあらわにする。三国志の時代は、単に圧政への抵抗ではなく、「漢に代わるもの」を求める動きであったと考えると、新鮮な視点を得られたように思った。