〇国立歴史民俗博物館 企画展示『陰陽師とは何者か-うらない、まじない、こよみをつくる-』(2023年10月3日~12月10日)
間違いなく面白い展示だったが、情報量が多すぎて、ちょっと私の頭が追いついていないので、これから展示図録(これがまた文字が多い)をしっかり読もうと思っている。本展示は、あまり知られていない陰陽道の歴史とそこから生み出されてきた文化をさまざまな角度からとりあげて考える。陰陽師の役割は、時代とともに多様に展開していった。本展第2部は、その中でも特に「暦の製作と配布」に着目する。
まず前半、古代日本において、中国から伝わった占いの術をもとにして陰陽道が誕生する。律令制度の下で陰陽師は陰陽寮に属する官人であったが、中国や朝鮮のように天文台としては発展せず、むしろ呪禁師の業務と統合され、占いと呪術・祭祀を主とする陰陽道が生まれる。平安時代の貴族社会に陰陽師を欠くことはできない。そう、やっぱり陰陽師と聞いて思い浮かぶのは、賀茂保憲(917-977)と安倍晴明(921-1005)である。保憲が天文博士のとき、晴明は天文得業生となっており、大学教授と大学院生の関係だね!という説明があってナルホドと思ったが、図録の解説を読むと、二人の師弟関係には、いろいろ疑わしい点があるようだ。
鎌倉幕府の成立とともに安倍氏の傍流から鎌倉陰陽師が生まれる。室町時代には、室町殿に仕える陰陽師の中から、安倍氏系統の土御門家、賀茂氏系統の勘解由小路家が陰陽道宗家として確立する。しかし応仁・文明の乱で京都が荒廃すると、土御門家は若狭国名田庄(現・福井県おおい町)に疎開する。おおい町! 以前、秘仏バスツアーに行ったところじゃないか!と思ったけど、調べたら、私が訪ねたお寺は海岸寄りで、土御門家(安倍家)の墓所や暦会館はかなり内陸にあるようだった。いつか行ってみたい。
近世には、土御門家は京都の公家社会に復帰し、天和3年(1683)幕府・朝廷から陰陽道支配権を認められる。このへん、ライバル・幸徳井家との争論とか、土御門泰福が渋川春海と親交を結び、保科正之ら幕閣の支援を得たことなど、人間ドラマとして興味深い。京都の土御門家屋敷に関する資料がいろいろ出ていたのも嬉しかった。春に國學院大學博物館で見た『土御門家がみた宇宙(そら)』の展示を思い出していた。
先を急いで第2部につなげてしまうと、近世末期には幕府天文方が暦の編纂を担っていたが、慶応4年(1868)王政復古の大号令が発せられると、土御門家は朝廷が暦を掌る体制に戻すことを進言し、編暦・頒暦の権限を得る。しかし政府の方針転換により、明治3年(1870)には天社神道廃止令(陰陽師の禁止令!)が出されて全国の陰陽師への支配権を失い、次いで暦に関する全ての権限を失う。明治6年、太陽暦への改暦が行われ、明治15年には太政官布達によって、官暦は伊勢神宮から頒布されることになった。ううむ、土御門家、悔しかっただろうなあ…と同情し、神宮暦というのが、復古でも何でもない「創られた伝統」であることを知る。暦に皇室関連の祝祭日が掲載されるようになったのも改暦以後で、「天長節、紀元節などといふわけもわからぬ日を祝ふ」(開化問答)という困惑の声も聞かれた。一方、禁じられた暦注の入った「お化け暦」(足がつかない)や、取締り対象外の一枚摺りの暦が多数流通したというから、我が国の庶民も「上に政策あれば、下に対策あり」のしたたかさを持っていたようである。また、日本の「官暦」は、いわゆる外地(朝鮮、台湾、満州など)にも頒布されたと聞くと、やはり暦は支配の象徴だったのだな、とあらためて納得した。
展示では「吉川家文書」という注記を持つ資料が目立った。これは、近世奈良町の暦師・陰陽師であった吉川家に旧蔵された文書・典籍の一括資料だという(奈良暦師吉川家文書)。奈良町には、今も陰陽町(地元では「いんぎょまち」と読まれる由)という地名が残るのだな。今度、行ってみなければ。
渋川春海作の『天文図・世界図屏風』(個人蔵、大阪歴史博物館寄託)は初めて見たのではないかと思う。人の身の丈ほどもある屏風に大きな天球図(星図)が描かれていて迫力があった。おおい町教育委員会が所蔵する「たばこ盆」は、不要になった暦の版木を再利用したもの。火鉢やたばこ盆の用材とされることが多かったというが、墨色の板に漢数字が並んでいるところがムダにカッコよくて、ちょっと欲しい。
『泣不動縁起絵巻』の祈祷の場面をもとにした、安倍晴明・式神・異形の外道たちの立体模型(等身大くらいの大きさ)は、初めて見たのは20年くらい前だと思うが、いろいろな展示で使い回されており、何度見て楽しい。お得な制作だったのではないかと思う。