見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

鎌倉宮の草鹿(くさじし)神事

2007-05-05 23:05:43 | 行ったもの(美術館・見仏)
 久しぶりに鎌倉まで遠征。5月5日といえば、鶴岡八幡宮の菖蒲祭(舞楽の奉納あり)が気になるところだが、今年は趣向を変えて、鎌倉宮の草鹿(くさじし)を見に行った。

 10人の射手たちが2組に分かれ、鹿をかたどった的を狙って弓の腕を競う神事である。「草鹿」っていうくらいだから、藁で作った素朴な鹿形を想像していたら、なんだかぽってりした太めの鹿が的で可愛かった。たぶん布で作って、中に詰めものをしているのだと思う。抱き枕にちょうどよさそう。写真ではよく分からないかもしれないが、木枠に紐でぶらさげられて、脚が宙に浮いている。

 射手は、神頭矢(じんどうや)といって先端の丸い矢を用いるので、突き刺さることはない。当たると、鈍い音がして矢が跳ね返り、重たい鹿の的が少し揺れる。

 基本的には当たり矢の数を競うのだが、奉行役から「草鹿のどこに当たったか」と問われ、射手が正しく答えられないと当たりは取り消される。また、進退の作法(衣の捌き方、歩数など)を間違えても(それを相手方に指摘されると)減点になる。このへんが近代スポーツと違い、古式ゆかしい。



■小笠原流鎌倉古式弓道保存会のホームページによれば、草鹿の的には立鹿(冬春の鹿)と居鹿(夏秋の鹿)があるそうだ。ちゃんと毛色も違っていて、面白い。
http://homepage2.nifty.com/ogasawararyukamakura/page/sub25-02.html
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休日は列車に乗って/鉄道ひとつばなし2(原武史)

2007-05-04 23:31:52 | 読んだもの(書籍)
○原武史『鉄道ひとつばなし2』(講談社現代新書) 講談社 2007.4

 2003年に刊行された『鉄道ひとつばなし』の続編。著者の専門は近現代政治思想史で(私はそちら方面の読者でもある)、鉄道の専門家ではない。「序」によれば、著者が興味を持つのは「鉄道そのものではなく、鉄道を通して見えてくる日本の近代や、民間人の思想や、都市なり郊外なりの形成、東京と地方の格差など」「車両そのものではなく、その車両に乗り合わせた人々や、車窓に流れる風景」だという。

 私も鉄道は好きだ。クルマの免許を持っていないから、どこに出かけるにも鉄道を利用せざるを得ないこともあるが、知らない土地の鉄道に乗ると、わくわくする。国内はもちろん、海外ならなおさらのことだ。交通手段が選べるときは、可能な限り、飛行機よりも車よりも鉄道を選ぶ。とはいえ、鉄道マニアと呼べるほどではないので、専門家が書いたものを読むのはしんどい。”古典”では、百間先生の阿房列車シリーズが好きだが、昨今は、著者の鉄道エッセイが、ほどよく私の趣味に合う。

 本書は、少年時代の思い出(著者の父親も同じく鉄道好きだった由)から、2005年の福知山線の脱線事故、2006年の阪急と阪神の経営統合、2007年3月PASMOの導入など、ごく最近の話題までを広く扱っている。また、”本業”の関係で訪れた台湾、香港、ロンドン、ポートランド(アメリカの都市としては例外的に公共交通網が発達している)等の鉄道事情も紹介されている。

 「独断・日本の駅百選」は、ホントの独断。「序」に述べられたとおりの著者の関心で選ばれていている。「鉄道と天皇が深い関係にあったことを改めて思い起こさせてくれる」横須賀とか、「土着の宗教と在日の文化」がみなぎる鶴橋とか。「オランダのロッテルダムに似ている(宮脇俊三)」新芝浦と、「いま永井荷風が散歩に降り立ってもおかしくない」堀切へは、ぜひ行ってみたい。あと、品川の駅そば(常盤軒)食べたい...。

 ちなみに私はこの春から東武東上線を通勤に使っているのだが、この線は東京と上州を結ぼうとして挫折した(!)ということを初めて知った。うーん。確かに、あと1歩で上州(上野国=群馬県)だったのに。当初の大望が名前にだけ残っているわけか。興味深い。
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図書館より、もっと図書館/ジュンク堂の提言

2007-05-02 23:22:22 | 街の本屋さん
○雑誌『情報の科学と技術』57(4) 2007.4 「特集:図書館への提言」

 とりあえず、言い訳――別に読もうと思って手に取ったわけではなくて、回覧物として職場の机に載っていた雑誌である。ついでに言うと、「重要」として付箋が付いていたのとは全く違う記事に、私は惹き付けられてしまった。

 ひとつは福嶋聡氏の「本と人の出会いの場~書店と図書館」である。著者の名前に記憶はなかったが、「私の所属するジュンク堂書店」という一言を見た瞬間、あ、あのひとに違いない、と思い出した。著書のタイトルも忘れていたけれど、内容は鮮烈な印象に残っている。『劇場としての書店』(新評論 2002.7)の著者である。

 ジュンク堂は「図書館型」の書店と言われるそうだ。ただし、はじめからそうしたコンセプトがあったわけではなく、売れ筋の平積みよりも専門書の品揃えを重視した結果、「天井から床近くまで書籍が並ぶ書棚が林立する」店舗となり、誰とはなしに「まるで、図書館のようだ」と言われ始めたのだそうだ。私は、ジュンク堂のユーザー(というのも図書館用語だな)になって日が浅いが、確かにあの書架には圧倒される。

 著者は「図書館を利用する書店人」であることをカミングアウトしているという。著者によれば、すべての商売において、最も重要なことは、自らが扱う商材をよく知ることだ。「本好き」の書店員でなければ、「本好き」のお客様が本を選ぶ時に快適な空間を形成することはできない。お客様が納得する本の配列はできない。とはいえ、片っ端から本を買うのは経済的にもしんどいし、置き場所にも困るから、効率よく図書館を利用するのだという。

 しかし、「お客様と本との出会いを演出する」図書館など、私は不幸にして経験したことがない。著者に倣って言うなら、私は「図書館を利用しない図書館人」である。圧倒的に書店のほうが好きなのだ。

 著者はいう、「書店の棚に収められた数多くの書物が、訪れた読者を自らの世界に誘い込もうとする。その誘惑を受けとめ、試行錯誤、逡巡の末、自らをその読書体験へと誘い込む書物を選択する、すなわち書店で書物を購入するその瞬間こそ、個々の読書体験の第一歩であり、ひょっとしたら最も決定的な第一歩だとも思うのである」と。本との出会いを「至福の体験」として、こんなふうに熱っぽく語ることのできる図書館員がどれだけいるのだろう。むしろ、いまどきの「常識的」図書館人は、「本(情報)を選択する際の試行錯誤、逡巡」なんて無駄なものは、極力無いほうと思っているフシがある。ほんとは「試行錯誤、逡巡」があり、時に「失敗」や「後悔」があるから(恋愛と同じで)いいのにねー。

 著者も認めているように、図書館には図書館の良さがある。図書館の棚の古さ、書店と図書館との間の宿命的な「時差」(この表現はちょっと素敵だ)は、書物にとって大切なものかもしれない、という。でも、やっぱり、私にとって居心地がいいのは、多くの図書館そのものではなくて、ジュンク堂のような「図書館型」書店の空間である。

 ほか、記事のタイトルだけ挙げると、着地点の見えないデジタル技術への不安を率直に表明した津野海太郎さんの「情報は捨てても本は捨てるな」も読み得。鳥取県知事の片山善博氏の「図書館のミッションを考える」も意外と面白かった。
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