見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

古代の茨城県/常陸国風土記(秋本吉徳全訳註)

2015-04-09 22:59:20 | 読んだもの(書籍)
○秋本吉徳全訳註『常陸国風土記』(講談社学術文庫) 講談社 2001.10

 この春から茨城県民になるにあたって、読み返しておこうと思った。私は学生時代、上代文学を専攻していたので、読んだことはある(はずである)。伝説を多く含み、物語性豊かな風土記という印象があった。蛇体と思われる夜刀(本書ではヤト、昔読んだときはヤツ)の神の伝説、密会が露見することを恥じた男女が松に変じてしまったウナイ松原の伝説、神に一夜の宿を請われ、断ったために一年中雪が降り積み、人が通わない山となった富士山と、神に仕えたために、人々がにぎやかに集うようになった筑波山の伝説、など。いずれも懐かしく読んだ。

 しかし全体としては「風土」に向かう関心よりも、漢文学の美意識に基づく装飾性(いわゆる四六駢儷体)が印象に残った。ところどころ、都の貴族でなければ持ちえない、高い教養が強烈に匂ってくる。『常陸国風土記』の成立に、藤原四子のひとり藤原宇合(遣唐副使をつとめ、多数の詩作あり)が関わっているという推測の妥当性をあらためて感じた。

 『万葉集』には、藤原宇合に献じた高橋虫麻呂の送別歌がある。虫麻呂は物語性のある長歌を多く残した、ちょっと変わった万葉歌人で、筑波山の歌も詠んでいることから、宇合に従って常陸に下向したのではないかと言われている。実は、私の卒論は高橋虫麻呂論だった。30年以上を経て、私がつくばに暮らすことになったのも何かの縁かもしれないと感慨を覚えている。

 常陸は「往来(ゆきき)の道路(みち)、江海(かわうみ)の津済(わたり)を隔てず」直路(ひたみち)の意味から「ひたち」と名づけたという。なるほど。別の説では、倭武(ヤマトタケル)の天皇(!)が手を洗おうとして、泉で袖を濡らしたため「衣手漬(ひた)ち」の国というのだとも。後者は詩的だが、散文的な前者のほうが納得がいく。

 筑波の県(あがた)は、かつて紀の国(木材の豊富な木の国なのかなあ)と言ったが、崇神天皇の御代に筑波の命が国造(くにのみやつこ)として遣わされ、その名にちなんで「筑波」と呼ぶようになったそうだ。しかし「筑波の命」は他書に見えず、委細不明なのだ。なんだかなあ。

 ただ「采女の臣と同族である」という注記があり、采女の臣が物部氏に近いという。常陸というと、中臣氏および藤原氏とのかかわりが強い印象があるが、古くは物部氏の拠点だったらしい。これから、いろいろ調べながら歩いてみるのが楽しみである。

 もうひとつ、全く忘れていたが、最後の「多珂郡」の条に「観世音菩薩の像を彫り造りき」(仏の浜の由来)とあって、びっくりした。現存する風土記で、仏(ほとけ)について記載があるのは、この箇所が唯一だという。古い仏縁にも通じているようで、茨城県に住むようになったことが、一層うれしい。
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幸せをもたらす絵画/若冲と蕪村(サントリー美術館)

2015-04-08 22:20:10 | 行ったもの(美術館・見仏)
○サントリー美術館 『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村』(2015年3月18日~5月10日)

「正徳6年(1716)は、尾形光琳が亡くなり、伊藤若冲と与謝蕪村というふたりの天才絵師が誕生した」というのが本展の導入である。正徳といえば新井白石の時代だ(正徳という年号は白石が選んだとされる)。なお正徳6年は、6月に享保に改元されている。

 冒頭には『平安人物志』画家の項が展示されていて、確かに二人が同時代人だったことを示す。若冲は「藤汝釣」蕪村は「謝長庚」の名前で載っている。もう一人の同時代人、藤(円山)応挙の名前も。ということで、応挙と蕪村の楽しい合作『ちいもははも』(爺も婆も)が展示されていた。着物姿の杓文字(杓子)と手拭いをかぶった猫が踊る。

 まず「出発と修行の時代」と題して、二人の比較的若い頃の作品を展示する。若冲は、だいたいどこかで見たことのある作品だった。あ、これは細見美術館の、とか、これは千葉市美術館だ、とか分かるのだが、陳腐感が全くない。何度見ても楽しく、喜ばしい。それから、時代(年齢)を追って「画風の確立」「新たな挑戦」へと進む。

 蕪村の作品は初めて見るものが多くて新鮮だった。やっぱり中国ネタが多い。歴史上の人物を独自の解釈で描いた『黄石公・王猛図』2幅はいいなあ。特にシラミをつぶす王猛の表情がいい。水墨画ならありそうだが、淡彩が美しい。明清絵画みたいだ、と思うのは私が倒錯しているのであって、蕪村が明清の新しい絵画を学んでいるのだろう。図録を見ていたら、後期展示の『猛虎飛瀑図』も素敵だ。『明師言行図屏風』の色彩感も独特である。これは後期も見たい。

 第1展示室の最後では、二人が学んだと思われる中国・朝鮮絵画を特集する。正伝寺の『猛虎図』や日本民藝館の『花下遊狗図』を見ることができて、少し得をした気分。ただ、明らかに影響を受けたと思われる作品が隣に並ぶわけではないので、ちょっとこのセクション、分かりにくいかもしれない。

 さて、階段を下りていくと、待っていたのが『象と鯨図屏風』(MIHOミュージアム)。やっぱりこれいいなあ、大好きだ。心から幸せな気持ちになれる。これまでの展示は、周りを暗くして屏風を目立たせる手法だったように記憶しているが、今回は、暖色(ワインカラー)が背景に用いられていて、雰囲気が明るい。向かい側の『蔬菜図押絵貼屏風』も大好きな作品。よちよち歩きの女の子を連れたお母さんが、中国語で「南瓜(なんぐゎ)、慈姑(つーぐぅ)」とうれしそうに教えていた。

 蕪村の『山水図屏風』は力のこもった作品だが、向き合うには肩が凝る。背景は深い青。私は『峨眉露頂図巻』や『夜色楼台図』のような力の抜けた蕪村の作品のほうが好きだが、これらは連休以降(4/29~)でないと見られないのかあ。

 後半のはじめに、若冲と蕪村の交友関係図が掲げてあった。二人の直接の交流を示す記録(書簡など)は見つかっていないが、上田秋成、木村蒹葭堂など、両者の交友関係の接点はあったようだ。また、京都の四条通り界隈には、二人だけでなく、応挙や呉春や池大雅も住んでいたことが分かり、いろいろ想像力を刺激されて楽しい。

 若冲の『果菜涅槃図』は久しぶりに見た。田楽をつくる『六歌仙図』は初見かもしれない。葉っぱを大きく描いた『蓮図』も記憶がなかった。漢文の賛ではなく和歌が書きつけてある。『釣瓶に鶏図』は、大和文華館も若冲を持っていたんだ、と初めて認識。いずれも晩年の作品である。あと比較的初期の作品で、赤い衣が鮮やかな『達磨図』(MIHOミュージアム)も、図録を見て気づいたが、未見のような気がする。

 連休に再訪だな、これは。
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和様の仏さま/菩薩(根津美術館)

2015-04-07 22:19:07 | 行ったもの(美術館・見仏)
根津美術館 コレクション展『菩薩 救いとやすらぎのほとけ』(2015年3月7日~4月6日)

 引っ越し直後の週末、駆け込みで間に合った! 「菩薩」に焦点をしぼった仏教美術展。菩薩(ぼさつ)とは「悟りを得たにもかかわらず、あえて人間界に降りて人間の苦楽に向き合い、救済の手をさしのべるほとけ」のこと。観音、文殊、普賢、地蔵など、私たち(日本人)にとっては、信仰の上でも美術史的にも、なじみ深く慕わしい諸尊が多くいらっしゃる。

 冒頭には、飛鳥~奈良時代の小さな銅造仏が4躯。所蔵館が注記されていないということは、根津美術館のコレクションなんだな、こんな作品も持っているのか、と驚く。それから仏画。普賢、文殊、地蔵菩薩と続く。根津美術館の仏画といえば、私は高麗の被帽地蔵菩薩像が好きなのだが、見回すと今回は出ていない。どうやら日本の仏画に限定しているようだ。にもかかわらず、このコレクションの厚み。

 室町時代の地蔵菩薩像(1幅)は美丈夫(武闘派のイケメン)でいいなあ、とうっとりする。一方、同じ室町時代の『地蔵菩薩霊験記絵巻』は、コロコロした人物、赤系の彩色が目立つ。塀に仕切られた火焔地獄に、木戸を開けて出入りするのが、なんともシュール。炎に包まれた怪獣たちもかわいい。

 彫刻も数件。飛鳥時代の木造彫刻だという観音菩薩立像には驚いた。後世の調和のとれた仏像とは、かなり雰囲気の異なる相貌。日本製かなあ。どうなのかなあ。平安時代の菩薩立像には「定朝風」という解説がついていたが、比叡山・横川の聖観音に似ていると思った。展覧会のポスターになっていた地蔵菩薩坐像は、王朝の優雅さを残す鎌倉時代の作。照明が明るすぎて、はじめ、ポスターと同一作品だということが分からなかった。

 展示室2も引き続き、日本の中世・近世の菩薩図が続く。最後に巨大な弘法大師像が掲げられていて驚く。実は4月5日と6日だけ「大師会」(※益田鈍翁によってひらかれた歴史ある茶会→こちら)の茶会にあわせて、五鈷杵、弘法大師御影、そして空海自筆(と伝える)『崔子玉座右銘』が飾られていた。すごい。

 それから、いつも同じ仏像が飾られている展示室3を覗いたら、何だか違うものが置かれている。尼浄阿が14年かけて書写した大般若経六百巻とそれを収めた春日厨子が、修復完了記念に公開されていた。浄阿は八条院にも仕えた女房で、摂関家の女性たちや自分の親族を弔うために大般若経を奉納したのだそうだ。展示されている第六百巻の奥書に「廻向貴賤事」とあって、筆頭に八條院の名前がある。その少し先に「僧信西」とあったのが気になる。

 3階は、北野天神絵巻(根津本)と「暮春の茶」で行く春を惜しんだ。
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2015引っ越しました(その2)

2015-04-06 22:30:57 | 北海道生活
札幌で2年間暮らした家(宿舎)。造りは古いが、居住性はよかった。



窓は全て二重で、内側はさらにガラスが二枚入っている。夏は窓を開けて寝ると、明け方、海鳥のような鳥の声が遠くから聞こえた。



退去の日の青空。



お世話になった灯油ストーブ。奥にあるのがタンク。とりあえず置いてくることを許してもらった。次の入居者が貰ってくれなかったら撤去費用を負担するという約束で。



2年間、足元を守ってくれた冬靴。底には金具つきで、凍った雪の上を素人でも安全に歩ける。



まだいくつか未公開の写真があるのだが、ひとまずはここまで。
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2015引っ越しました

2015-04-05 21:49:11 | 日常生活
しばらくブログをサボっていたのは、引っ越しに忙殺されていたためである。今回は北海道札幌市から茨城県つくば市への移動。しかも職場と住まいの引っ越しを一気に行うという、初めての体験をした。以下は、心覚えの記。

3月26日(木)午前中に半休を取って、引っ越し荷物を搬出。以後はホテルに寝泊まりしつつ、職場に通う。

3月28日(土)に、つくば市に赴き、新しい宿舎の鍵を受け取り、ざっと新居の掃除。その夜は近くのビジネスホテルに泊まって、翌朝、荷物の搬入に立ち会うという計画を立てた。

ところが、27日(金)の職場の送別会の後、二次会の居酒屋にスマホを忘れてきてしまうという大失態をやらかす。28日(土)の朝に気づいたのだが、朝早い飛行機だったので、取りにいく時間がなかった。つくば市に着いても、宿舎の管理人室の場所がうろ覚えだったり(スマホで調べればいいやと思っていた)、引っ越し業者に連絡が取れなかったり、さんざんな苦労をする。

それでも29日(日)は予定より早めに荷物搬入を終えたので、急いで羽田へ。予約していた便をキャンセルし、2時間ほど早い便に買い替えて札幌に戻る。暗くなるまで旧居を掃除し、居酒屋にスマホを取りに行く。この日もホテル泊。

30日(月)は午前休。なんとか掃除を終わらせ、ガス使用停止の立ち合い、そして市役所に転出届を提出。午後は職場の机まわりを片付け。深夜までかかるんじゃないかと思っていたが、意外と早めに全て片付く。

31日(火)朝、辞令をもらって、昼過ぎの飛行機で札幌を発つ。新千歳空港がものすごい混雑で、預けるつもりだったキャリーバッグも預けられず、お土産も買えず。ぐったりしながら新居に到着。

そして、4月1日(水)から新しい職場に出勤。

↓いただいたお花など。

23日(月)の送別会でもらった花束。もう室内は引っ越し準備が九分どおり済んだ状態で、まともに愛でてあげられなかった。ごめんなさい。


27日(金)の送別会でもらった花束。キャリーバッグに入れて、新居に持ってきてしまった。その日はカメラがなくて写真が取れなかったので、これは31日の姿。意外と元気だった。今日(4月5日)もまだカーネーションと黄バラなど数本はキッチンの窓辺を飾っている。


そして、元の同僚から、新しい職場に送っていただいた花籠。ありがとうございました。


部屋のネットはまだ開通していないが、スマホのテザリング機能で上網できる。便利だなあ~。

そして、まだ諸手続きも完了していないのに、もう東京に美術展散歩に出かけてたりしている。やっぱり東京に近い(?)のはありがたい。レポートは追って。
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