○秋本吉徳全訳註『常陸国風土記』(講談社学術文庫) 講談社 2001.10
この春から茨城県民になるにあたって、読み返しておこうと思った。私は学生時代、上代文学を専攻していたので、読んだことはある(はずである)。伝説を多く含み、物語性豊かな風土記という印象があった。蛇体と思われる夜刀(本書ではヤト、昔読んだときはヤツ)の神の伝説、密会が露見することを恥じた男女が松に変じてしまったウナイ松原の伝説、神に一夜の宿を請われ、断ったために一年中雪が降り積み、人が通わない山となった富士山と、神に仕えたために、人々がにぎやかに集うようになった筑波山の伝説、など。いずれも懐かしく読んだ。
しかし全体としては「風土」に向かう関心よりも、漢文学の美意識に基づく装飾性(いわゆる四六駢儷体)が印象に残った。ところどころ、都の貴族でなければ持ちえない、高い教養が強烈に匂ってくる。『常陸国風土記』の成立に、藤原四子のひとり藤原宇合(遣唐副使をつとめ、多数の詩作あり)が関わっているという推測の妥当性をあらためて感じた。
『万葉集』には、藤原宇合に献じた高橋虫麻呂の送別歌がある。虫麻呂は物語性のある長歌を多く残した、ちょっと変わった万葉歌人で、筑波山の歌も詠んでいることから、宇合に従って常陸に下向したのではないかと言われている。実は、私の卒論は高橋虫麻呂論だった。30年以上を経て、私がつくばに暮らすことになったのも何かの縁かもしれないと感慨を覚えている。
常陸は「往来(ゆきき)の道路(みち)、江海(かわうみ)の津済(わたり)を隔てず」直路(ひたみち)の意味から「ひたち」と名づけたという。なるほど。別の説では、倭武(ヤマトタケル)の天皇(!)が手を洗おうとして、泉で袖を濡らしたため「衣手漬(ひた)ち」の国というのだとも。後者は詩的だが、散文的な前者のほうが納得がいく。
筑波の県(あがた)は、かつて紀の国(木材の豊富な木の国なのかなあ)と言ったが、崇神天皇の御代に筑波の命が国造(くにのみやつこ)として遣わされ、その名にちなんで「筑波」と呼ぶようになったそうだ。しかし「筑波の命」は他書に見えず、委細不明なのだ。なんだかなあ。
ただ「采女の臣と同族である」という注記があり、采女の臣が物部氏に近いという。常陸というと、中臣氏および藤原氏とのかかわりが強い印象があるが、古くは物部氏の拠点だったらしい。これから、いろいろ調べながら歩いてみるのが楽しみである。
もうひとつ、全く忘れていたが、最後の「多珂郡」の条に「観世音菩薩の像を彫り造りき」(仏の浜の由来)とあって、びっくりした。現存する風土記で、仏(ほとけ)について記載があるのは、この箇所が唯一だという。古い仏縁にも通じているようで、茨城県に住むようになったことが、一層うれしい。
この春から茨城県民になるにあたって、読み返しておこうと思った。私は学生時代、上代文学を専攻していたので、読んだことはある(はずである)。伝説を多く含み、物語性豊かな風土記という印象があった。蛇体と思われる夜刀(本書ではヤト、昔読んだときはヤツ)の神の伝説、密会が露見することを恥じた男女が松に変じてしまったウナイ松原の伝説、神に一夜の宿を請われ、断ったために一年中雪が降り積み、人が通わない山となった富士山と、神に仕えたために、人々がにぎやかに集うようになった筑波山の伝説、など。いずれも懐かしく読んだ。
しかし全体としては「風土」に向かう関心よりも、漢文学の美意識に基づく装飾性(いわゆる四六駢儷体)が印象に残った。ところどころ、都の貴族でなければ持ちえない、高い教養が強烈に匂ってくる。『常陸国風土記』の成立に、藤原四子のひとり藤原宇合(遣唐副使をつとめ、多数の詩作あり)が関わっているという推測の妥当性をあらためて感じた。
『万葉集』には、藤原宇合に献じた高橋虫麻呂の送別歌がある。虫麻呂は物語性のある長歌を多く残した、ちょっと変わった万葉歌人で、筑波山の歌も詠んでいることから、宇合に従って常陸に下向したのではないかと言われている。実は、私の卒論は高橋虫麻呂論だった。30年以上を経て、私がつくばに暮らすことになったのも何かの縁かもしれないと感慨を覚えている。
常陸は「往来(ゆきき)の道路(みち)、江海(かわうみ)の津済(わたり)を隔てず」直路(ひたみち)の意味から「ひたち」と名づけたという。なるほど。別の説では、倭武(ヤマトタケル)の天皇(!)が手を洗おうとして、泉で袖を濡らしたため「衣手漬(ひた)ち」の国というのだとも。後者は詩的だが、散文的な前者のほうが納得がいく。
筑波の県(あがた)は、かつて紀の国(木材の豊富な木の国なのかなあ)と言ったが、崇神天皇の御代に筑波の命が国造(くにのみやつこ)として遣わされ、その名にちなんで「筑波」と呼ぶようになったそうだ。しかし「筑波の命」は他書に見えず、委細不明なのだ。なんだかなあ。
ただ「采女の臣と同族である」という注記があり、采女の臣が物部氏に近いという。常陸というと、中臣氏および藤原氏とのかかわりが強い印象があるが、古くは物部氏の拠点だったらしい。これから、いろいろ調べながら歩いてみるのが楽しみである。
もうひとつ、全く忘れていたが、最後の「多珂郡」の条に「観世音菩薩の像を彫り造りき」(仏の浜の由来)とあって、びっくりした。現存する風土記で、仏(ほとけ)について記載があるのは、この箇所が唯一だという。古い仏縁にも通じているようで、茨城県に住むようになったことが、一層うれしい。