見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

近代の名所絵いろいろ/名所絵から風景画(三の丸尚蔵館)

2017-06-15 00:46:09 | 行ったもの(美術館・見仏)
三の丸尚蔵館 『名所絵から風景画へ-情景との対話』(2017年3月25日~6月25日)

 出光美術館を見た帰りに、ふらりと寄った展覧会だが、面白かった。いろいろ知らなかった作品に出会うことができた。逸名(雲谷派)の『唐土名勝図屏風』(江戸中期)は八曲一双の大画面。絹本墨画、小さな人物のみ胡粉(?)で彩色して際立たせている。右隻は西湖周辺、左隻は金山寺周辺の風景を描くというが、展示は右隻だけだった。「霊隠寺」「銭塘門」などの地名が書き付けてあった。唐俊筆『太崋山図』(清代)も巨幅で、舶来もの。やはり中国の風景は大画面がよろしい。

 『青緑耶馬渓真景図』(斎藤畸庵、明治13年)は緑したたる耶馬渓、『耶馬渓図』(塩崎林浄、大正4年)は紅葉の耶馬渓を描いたもの。どちらも横長の図巻様式で、次第に山奥に入っていく様子が描かれる。羅漢寺の洞窟らしきものも。かつて耶馬渓を訪ねたときの記憶がよみがえって楽しかった。当時、人気沸騰の行楽地だったのだろうな。『金剛秋色図巻』(福田眉仙、大正11年)は、朝鮮半島の金剛山を描く。これも「九龍淵」「彩雲峯」などの地名が書き入れられており、「字が書いてある」と不思議がっているお客さんがいた。自然の美しさの捉え方は、西洋近代の「風景画」ふうであるけれど、まだ地図や観光案内の要素を含んだ「名所絵」なんだなと気づく。

 『石脳油産地之真景』(児島果亭、明治43年)三幅対は、一見、よくある墨画の山水画だが、日本の石油産業の祖である石坂周造が献納したもので、石油の採掘地を描いている。1枚目はよく分からなかったが、2枚目と3枚目には、柱を組んだ逆三角形の石油汲み上げ櫓が小さく描かれ、淡い朱を差した旗が立っている。ただし、それ以外は、人の姿もなく、のどかな(むしろ荒涼とした?)山間の風景である。

 『北海道忍路高島真景』(野村文挙、明治43年)は、皇太子(大正天皇)の北海道行啓を記念して、小樽区から献納されたもの。青い海に面した夏の忍路、月に照らされた雪景色の高島岬が描かれている。札幌から小樽あるいは余市へ鉄道で日帰り旅をしたときの車窓の記憶がよみがえって懐かしかった。近代になっても日本画の「風景画」は、どこか「名所画」の要素があって、「地名」の情報とセットで味わうものだと思う。

 その点、洋画は「地名」に頓着しない。山本森之助『夾竹桃』は、葉山あたりの海を思い浮かべていたが、あとで図録を立ち読みしたら、瀬戸内の風景らしかった。しかし、そんなことはどうでもよいと思えるのが近代の風景画である。
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皇居東御苑のハナショウブ

2017-06-12 00:08:55 | なごみ写真帖
皇居東御苑の三の丸尚蔵館を見てきた。ふと菖蒲田があったことを思い出して、行ってみたら満開だった。



花菖蒲はアヤメ科のノハナショウブをもとに改良された園芸品種で、江戸系、肥後系、伊勢系の三系統があるが、ここには江戸系が植えられているそうだ。白、水色、紫と、さまざまな色調が隣り合って、錦をさらしたような風情である。







でも、こういうのは人工の庭園ならではの風景で、ほんとは同一品種が群生するほうが多いのだろうな。光琳の『燕子花図』みたいに。
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画家の目で選ぶ/雑誌・BRUTUS「死ぬまでにこの目で見たい西洋絵画100」

2017-06-11 00:05:44 | 読んだもの(書籍)
〇雑誌『BRUTUS』2017年6/15号「人気画家・山口晃の死ぬまでにこの目で見たい西洋絵画100」 マガジンハウス 2017.6

 山口晃画伯が選ぶ西洋絵画1000。実際には91番目までが画伯のセレクションで、あと9点は美術ジャーナリストの鈴木芳雄氏と藤原えりみ氏が選んでいる。時代、分野は幅広く、ポンペイで発掘された紀元前のフレスコ画から20世紀の抽象画まで、中世の時祷書や写本も入っている。1人1作品と限っていないので、複数作品が選ばれている画家もいる。

 画伯は西洋絵画の見方について、「何が描かれているか」よりも「どう描かれているか」を見る方が良い気がします、と語っている。大いに同意するのだが、私はなかなかこれができない。私は絵の見方が下手なのだ。しかし、そんな私でも「何が」を忘れてしまう作品に出会うことはある。画伯のセレクションはとても自由で、はっきり言うと、全体のバランスを考えている感じがあまりしない。まあ本人が「私としては好きな画家の複数枚を見たい。自分の好みを人に押し付ける気はない。死ぬまでにとは大仰だ」と企画趣旨に全面的に反対するような発言をしているくらいだから、気楽にページをめくって楽しめばいいものだと思う。

 楽しいのは各作品につけられた画伯のコメントである。老眼にはつらい、小さな文字だが、全て読ませてもらった(そのあとに付いている美術辞典的な解説は、ほとんど読んでいない)。カルロ・クリヴェッリの描く女性について「私はついメーテルやエメラルダスを思い浮かべてしまいます」というのは、図版を見てにやにやしてしまった。ボスの『最後の審判』についても「何が」より「どう」描くかに着目し、「あやふやなものを素早く皮に包み込んでプリっと現前させる」と、独特の言い回しでその腕前を称賛する。ブリューゲルの『バベルの塔』については、明暗の諧調付けや刷毛目の効果に注目し、画家ならではの解説をしている。「次の筆が前の筆のリカバーになっている」って、もう少し詳しく教えてほしい。

 作家別でいうと、リューベンスは3点も選ばれていて(ただしどれも習作)よほど好きなんだと思う。一方、ラファエロは1作品選んでいるが「何処がそんなに評価されているのかいま一つ分かりません」という。クールベ、ゴーギャン、ゴッホは選ばれず。ルソーもなかったと思う。セザンヌはお好きなんだなあ。選ばれている作品は、ブリヂストン美術館所蔵の『サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール』。ゴヤのことも端的に「ゴヤは好いですね」と述べていて嬉しい。ピカソのキュビズム絵画『アヴィニョンの娘たち』については「これをイカしてると思う自分の心証は水墨にシビれる心持ちの反映なのです」と気になることを述べている。

 フラ・アンジェリコの『受胎告知』(コルトーナ司教区博物館)については、天使の翼の金箔と彩色による表現(いやー確かによく見ると超絶技巧だわ)を称賛したあと「満足したなら近くにあるテアトロと云う料理屋に行って生ポルチーニのパスタをやるのです」「白ワインが実に合うのです」という。ときどき、こんな耳寄り現地情報が付いているものもあった。また、ヤコボ・ダ・ポントルモの『十字架降下』という作品は薄暗い小さな教会にあるそうで、「電灯に照らされると死ぬ絵もある」というコメントに共感した。

 関連特集として、いまブリヂストン美術館コレクションの名品展がフランスのオランジュリー美術館で開かれており、山口画伯によるレポート(文章+出張版「すずしろ日記」)が掲載されている。名品展は、モネ、ルノワールなどの西洋絵画と、藤島武二や坂本繁二郎などの日本洋画で構成されており、最初、オランジェリー側は日本洋画の展示に難色を示したが、最終的に理解を示され、展示に至ったという。面白いと思った。
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江戸のエンタテイメント/馬琴と国芳・国貞(太田記念美術館)

2017-06-09 23:03:23 | 行ったもの(美術館・見仏)
太田記念美術館 企画展『馬琴と国芳・国貞 八犬伝と弓張月』(2017年6月2日~25日)

 なんと今年は曲亭(滝沢)馬琴(1767-1848)の誕生250周年なのだそうだ。初めて知った。他にどこかの博物館や文学館で記念企画展はないのだろうか。ないとしたら嘆かわしいことだ。本展では馬琴の代表作『南総里見八犬伝』と『椿説弓張月』にかかわる浮世絵約80点を紹介する。どとらも小説(読本)として読者を獲得しただけでなく、歌舞伎の題材にもなった。武者絵を得意とした歌川国芳と、役者絵で人気を博した歌川国貞の作品が最も多い。

 まずは『八犬伝』から。最もよく描かれるのは「芳流閣」の場面。三層の物見櫓の屋根の上で、犬塚信乃と犬飼見八(現八)が、賊と捕り手として相まみえるシーンである。縦長の画面に遠近法を利かせた、月岡芳年の『芳流閣両雄動』は大好きな作品。赤い破風がつくる鋭角な三角形、その流れ下るような稜線と、足を踏ん張ってのけぞる見八の体の軸との交差が、めちゃくちゃカッコいい。芳年の作品のもとになったと思われるのが、歌川国芳の『八犬伝之内芳流閣』で、舞台仕立てはよく似ているが、国芳にしてはあまり面白くない。国貞は、物語の一場面というより、歌舞伎の舞台として描いたらしく、人物(役者)の顔立ちに気をつかっている。『八犬伝』に歌舞伎作品がある(スーパー歌舞伎以外に)ということを知らなかったので、へええと思った。

 犬坂毛野(毛乃)もよく描かれている。智略にすぐれ、女性とも見紛う美貌の持ち主。犬田小文吾とペアで描かれたものが多いと思ったら、女性として小文吾に結婚を申し込んだエピソードがあるのだな。八犬士以外にも、伏姫、玉梓、浜路、網干左母次郎など、『八犬伝』の登場人物がだいたい分かるのは、私が1970年代の人形劇『新八犬伝』を見て育ったためである。その後、ずいぶん大人になってから、岩波文庫の『八犬伝』全10冊も読んだ。正直に言って前半はものすごく面白いが、後半は失速する。さんざん勿体をつけて登場する八犬士の最後のひとり、犬江親兵衛が全然魅力的でないのだ(個人の感想です)。長編小説ってこういうものかなあと思っていたけど、もしかすると「仁」(親兵衛が体現する)は小説にならない、と馬琴は言いたかったのではないか、とも考えるようになった。

 『椿説弓張月』は原文を読んだことがないが、かなり忠実な全文訳を読んでいる。史実と創作の混ぜ込み具合が絶妙で、最後まで小説の結構が崩れない、見事な小説だと思っている。国芳の『讃岐院眷属をして為朝をすくふ図」は、浮世絵の名作だが、どんな場面を描いたものかが分かると、一層味わい深い。どんなに離れても切れない、讃岐院(崇徳院)と為朝の絆の強さに泣けるんだなあ。ほかに好んで描かれた「為朝強弓図」は、伊豆大島に流された為朝が、数万騎を乗せて攻め寄せた軍勢を一矢で射返した場面。為朝の側から遠くの軍船を描いたものもあれば、逆の構図もあり、絵師の工夫が感じられて面白い。あと、アメコミみたいに派手な表現が大好きな国貞の『蒙雲国師』が見られたのも嬉しかった。もっと馬琴は読まれてほしいなあ。面白いんだから。
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夏涼を感じる/江戸期の民藝(日本民芸館)

2017-06-06 23:32:02 | 行ったもの(美術館・見仏)
日本民芸館 特別展『江戸期の民藝-暮らしに息づく美-』(2017年4月4日~6月18日)

 なんかこう、理屈の要らない展覧会が見たくなって、日本民藝館に行ってきた。「江戸期の民藝」というのは、ずいぶん直球なタイトルだなと思いながら館内に入る。正面玄関、階段下の左の展示ケースには塗物や螺鈿、右には素朴な染付の白磁。視線を上に向けると、踊り場の中央にも展示ケース。ここは焼き物各種。さらに上には、大きな木彫の仮面が掛かっていた。大きくてぶ厚い、見るからに重たそうな「竈面」で、たぶん人が被るためのものではなく、大きな眼を見開いて、広い厨房に睨みを利かすためのものだろう。その左右には藍染の着物。左は吉祥の熨斗柄(?)、右は蝶柄だった。

 いつものように、2階の大展示室から見始める。一瞥して、やっぱり陶磁器と布製品が多いという印象。いちばん奥に、半纏のような丈の短い着物が5点並んでいて、茶系のものが多かったので、へえ珍しい染色だなあと思って近寄ったら、すべて革羽織だった。背中に印を入れたものや、全体に絞り文様を散らしたものもあった。そのほか、三春人形、鴻巣人形などの泥人形、小さい絵馬、籠、色ガラス容器、鉄瓶など、あらゆる素材の品物が並んでいた。金唐紙の煙草入れも。筒描きの近江八景図を貼った屏風は涼しげで素敵だった。旗印屏風も楽しい。毎日見てたら、自然と覚えるだろうなあ。廊下には、泥絵や大津絵など。

 もう1室が関連展示で、司馬江漢の『巨蟹図』の掛軸仕立てや丹緑本、異時同図法で物語全体を描いた『曽我物語図屏風』など。『陣羽織図』に、白地に赤富士というデザインがあって、特攻服みたいだと思ってしまった。「朝鮮陶磁」と「朝鮮工芸」が1部屋ずつあって、取り合わせの書画も楽しめた。石造の羅漢、如来、道人像などがあり、つやつやした濃茶色を見て木造?と思うと「石」と書いてある。朝鮮半島は古い木彫仏が残っていない、と聞いたことがあるが、やっぱりそうなのだろうか。「河井寛次郎と濱田庄司」の部屋では、河井のピンク色の釉にときめく。

 1階、「明治・大正・昭和時代の陶器」では「うんすけ」「ちょか」「行火(ねこ)」「うるか壺」などの知らない用語に目を見張る。「ここ不親切よね」とこぼしていたおばさんもいたけど、説明のないのが、民藝館のいいところだと私は思っている。塩笥(しおげ)というのは、塩や味噌を入れるための小型の壷だそうだが、黒っぽい球体の側面に口が開いているものがあって、すごく気に入ってしまった。そっけなさの極地みたいで好きだ。逆に、十字の手裏剣みたいに四方に注ぎ口のついた「ちょか」には笑った。どういう発想なのか、まるで見当がつかない。

 「アフリカの造形」は、かなり珍しい特集だと思った。仮面が多く、動物の特徴を模した巨大なものもあれば、能面みたいに小さくて無表情なものもある。小さな木製の枕が、古い日本の箱枕に似ているのが面白かった。最後に「ベトナムの染織」は、北部山地や中部高原に住む民族の衣装で、濃い藍染と華やかなパターン文様の組み合わせが美しい。中国の少数民族とも共通する感じだった。
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それでも楽になってきた/通勤電車のはなし(佐藤信之)

2017-06-05 23:34:03 | 読んだもの(書籍)
〇佐藤信之『通勤電車のはなし:東京・大阪、快適通勤のために』(中公新書) 中央公論新社 2017.5

 1970年代、中学から電車通学をするようになって、通勤電車に揺られる日々が始まった。高校、大学を経て、社会人になり、通算すれば40年以上、通勤電車を乗っている。2、3年で勤務先が変わる仕事をしていることもあって(主に東京近郊だが)いろいろな路線を使った経験がある。という私には、「あの駅」「この路線」と思い当たるところが多くて、とても面白かった。

 はじめに通勤電車誕生の歴史を振り返り(そうか、関東大震災で都心の商人が被災→山手に移住→職住分離し通勤の習慣が誕生、なのか)東京圏と大阪圏のネットワークの現状をそれぞれ形成過程とともに語る。東京圏は、昭和初期に基本的な鉄道網が整備された。総武線と中央線の乗り換えに便利なJR御茶ノ水駅の構造もこの時期に作られたもの。総武線と山手線が直交する秋葉原駅もこの頃。よく使う駅だが、総武線が「超高架」だなんて、気づいたことがなかった。地下鉄でも、赤坂見附駅の銀座線と丸ノ内線の乗り換えは対面ホームでありがたい。

 戦後は地下鉄が急速に路線網を広げたが、使える用地が限られることが多く、乗り換えの導線が複雑になるなど、さまざまな困難が生じた。2008年に開業した副都心線の、開業直後の大混乱は今でもよく覚えているが、なるほどこういう理由があったのかと初めて分かった。東武東上線方面と西武方面の電車が分岐する小竹向原駅のホームの使用法が複雑すぎたのだ。

 大阪圏では、環状線をさまざまな郊外路線が一部共用している。同じホームでいろいろな方向に向かう電車に乗ることのできるこの方式は利便性が高い、と著者は評価しているけど、東京育ちでこの方式になじみのない私は、何度か乗り間違えて慌てたことがある。JRの路線網と地下鉄・私鉄が接続しておらず、乗り換えが不便というのは、だいぶ慣れてしまった。

 次に、東京圏・大阪圏の人口動向と輸送改善について。5年刻みで東京圏(神奈川・埼玉・千葉・茨城)の人口動向を地図上で見ていくと、新たな鉄道路線の開通や輸送力向上が、特定地域の人口増を引き起こすことがはっきり分かる。2005~2009年のつくばエクスプレス沿線の人口増とか。東京圏は鉄道への依存度が高いため、鉄道の整備により沿線人口が着実に増加する。これに比べると大阪圏は、東京圏よりも自動車への依存度が高く、鉄道が整備されても必ずしも沿線人口が増えず、鉄道経営を厳しくしているという。これは鉄道ファンとして看過できない深刻な問題だと思った。

 続いて、東京圏・大阪圏の混雑緩和の推移について。これこそ本書の最重要テーマ!と思うのは、私が今も満員の通勤電車(混雑率190%を超える路線)で通勤しているからだが、毎朝「満員電車」を体験している日本人って、国民の何割くらいなんだろう? そして、近年、東京圏の混雑率は徐々に低下しているという指摘には頷けた。確かに、私が学生時代に経験した総武線や中央線の混雑は今よりひどく「殺人的」が冗談にならなかった。輸送力強化のためのダイヤ編成、車両の改善、複々線化など、きめ細かく地道な対応が功を奏してきたのだと思う。もっとも「混雑率100%」というのは、本書の説明を読むと、無駄に高い目標に感じられる。著者は「楽に新聞が読める程度」(150%)を目標にすべき、というが、今なら「楽にスマホが使える程度」でいいかもしれない。

 最後に東京圏・大阪圏の今後の展望について、いくつかの具体的な施策を述べる。JR越中島貨物駅から新小岩駅までの貨物線を改造して整備する案、面白いな。最近、この線路を見つけて、何だろう?と思っていたところだ。また、本書の前半に記載されていたが、JR東京駅と羽田・成田空港のアクセスを改善するため、丸の内仲通りに地下鉄を通し「新東京駅」を建設する計画があるという。工事が大変そうだけど、実現したら便利だろう。これに比べると、大阪は、2025年の大阪万博にあわせて湾岸部に新線を計画しているそうだが、大丈夫かなあとあやしまれる。

 ところどころに記述にあわせたダイヤグラムが載っているのも見どころ。線の密度が蚊帳の目みたいになっていて、諸条件を漏れなく加味してこれを編成するのって、すごい職人芸だと思う。
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地震の国で暮らす/熊本城(永青文庫)

2017-06-04 23:18:53 | 行ったもの(美術館・見仏)
永青文庫 春季展示『熊本城-加藤清正と細川家-』(2017年3月18日~6月4日)

 3月からやっていた展覧会だが、滑り込みで見てきた。私は自分の手控えに「永青文庫・加藤清正」とメモしていたのだが、清正公に関する資料はあまり多くなかった。会場で、あらためて開催趣旨を読みなしてみたら、2016年4月の熊本地震で大きな被害を蒙った熊本城について、加藤清正が築き、細川忠利入城以来240年細川家が守り伝えてきた歴史を多方面から紐解き、熊本への理解を一層深めることで、復興支援の一助に繋がるとの願いを込めた展覧会である。

 4階展示室に入ってすぐ、熊本城の主なビューポイントについて、被災前と被災後の写真が掲載されていた。宇土櫓は、写真で見る限り軽微な被害で済んだようだ。北十八間櫓は無残に崩れ落ちてしまった。飯田丸五階櫓は、土台の石垣がほとんど崩れてしまったのに隅の縦一列の石垣が残ったおかげで奇跡的に倒壊を免れたもので、地震直後のニュースでも見た記憶があった。

 展示には、明治初期の熊本城の古写真もあって興味深かった。西南戦争の折、明治10年(1877)に大小天守などを焼失しているので、それ以前の撮影だろうという。しかし明治の絵図を見ても、熊本城ってデカい(広い)なあとしみじみ感じる。日本の城というより「城市」の雰囲気がある。4階は、ほかに山家灯籠の紙でできた熊本城、宮本武蔵筆の墨画など。

 3階には、清正関係の烏帽子形兜(写)など少々。細川家が熊本城を受け継ぐに際して、正式な命令の前に噂がささやかれていたことを示す資料(江戸の忠興→忠利への書状)や、加藤家側の実務担当者が幕府の担当者を通じて現地の様子を細川家に知らせた引継ぎ文書などが面白かった。「無理之年貢」「けんち(検地)の帳面」「酒札」「商札」などの単語が読み取れた。

 忠利が寛永9年(1632)に入城したとき、熊本城は寛永年間の地震の傷跡が残った状態で、忠利はその翌年にも地震に遭い、「本丸は庭がなくて気遣いなので二の丸に下がっている」等、方々へ書き送っている。また、上様の許しを得て「地震屋」(避難場所)を作りたい、という書面も残っている。国許屋敷である花畑屋敷の絵図には、実際に「御地震屋」という建物があったことも参考写真パネルで示されていて、びっくりした。初めて知ったけど、同様の施設は他藩にもあったんだろうか。そして熊本城が、その後の毎年のように、地震、大雨、洪水、強風などの被害を受け、修復を繰り返してきたと知った。やれやれ。自然災害は、この国の暮らしにとって「折り込み済み」のリスクと考えるしかないのだなあ。

 そのほか、細川家の守護天童像(南北朝時代、たぶん木造)は奇異なものであった。細川頼之の夢に現れ、和歌を口ずさんで細川家の繁栄を予言したという。おかっぱ頭で、玉眼をあやしく光らせ、口を開く。衣の前をはだけ、袖をなびかせ、右手には扇、左手は長い人差指を立てている。

 私は地震の前年、2015年にたまたま仕事で熊本に行き、熊本城を駆け足で観光したのだが、細川家の御座船「波奈之丸(なみなしまる)」を見たかどうか記憶が定かでない(天守閣に登らなかったかも)。天守閣内で常設展示されてきた「波奈之丸」は、被災後、搬出されて、いま熊本市立熊本博物館にあるそうだ。それにしても「波奈之丸」の名前に記憶があると思ったら、羽田空港のディスカバリーミュージアム(永青文庫の出張所?)で見たのだった。 

■講談社野間記念館 『竹内栖鳳と京都画壇展』(2017年5月27日~7月17日)

 近くまできたので、ついでにこちらにも寄った。竹内栖鳳は5点しか出ていなくて、ちょっとダマされた感じがしたが『古城枩翠』はいい絵だった。また、さまざまな画家の「十二ヶ月図」(全て色紙形)を見比べたのも面白かった。いかにも伝統的な月並みの画題で統一しているものもあれば、え?みたいなものもあった
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汎スラヴ主義の夢/雑誌・芸術新潮「秘められたミュシャ」

2017-06-03 00:09:28 | 読んだもの(書籍)
○雑誌『芸術新潮』2017年3月号「秘められたミュシャ」 新潮社 2017.3

 いまさらのようだが書いておく。国立新美術館の『ミュシャ展』は今週末までなので、ぎりぎりセーフと思いたい。第1特集は、世界で初めてチェコ国外で公開された連作『スラヴ叙事詩』全20点をよみとくためのガイドである。本誌を読んでから見に行こうと思っていたのだが、年度末のどさくさに忙殺されて、結局「見てから読む」ことになってしまった。しかし、それでよかったと思っている。

 本誌には、「撮り下ろし」20点の写真と題材の解説に加え、『スラブ叙事詩』の舞台を書き込んだヨーロッパ地図が掲載されている。No.1「原故郷のスラブ民族」は、ウクライナ領内、ポーランドとの国境地帯になる。かと思えば、No.3「スラヴ式典礼の導入」は、現在のチェコとスロヴァキアの国境付近に興ったモラヴィア王国を描く。No.4「ブルガリア皇帝シメオン1世」は、そのモラヴィアから逃れてきたスラヴ語派の聖職者を受け入れたブルガリアが舞台。No.16「ヤン・アーモス・コメンスキーのナールデンでの最後の日々」は、宗教改革の最後の指導者が、放浪の末、オランダで没した様を描く。No.17はギリシャ、No.18はモスクワである。

 私は、国立新美術館でこの作品を見たとき、どこかで似たものを見たことがある気がした。特定の作品という意味ではなく、ミュシャと同時代の日本の画家も、母国の神話や歴史を題材にした作品を、好んで描いていたように思う。だが、ミュシャの場合、なぜ「チェコ叙事詩」でなく「スラヴ叙事詩」なのか。作品の舞台が、いくつもの国境線を超えて広範囲に広がるのか。その鍵となるのが「汎スラヴ主義」という思潮である。

 18世紀末以降、チェコ人の民族意識の覚醒とともに、「弱小のチェコ人が強大なドイツ人に対抗するためのバックボーンとしてスラヴ人の存在に光が当たることで生まれた」のが汎スラヴ主義だった。ああ、汎スラヴ主義って世界史で習ったなあ…と思い出したが、スラヴ人とは「言語学上の概念に過ぎない」という解説にびっくりした。スラヴ人の団結などといっても「詩人の夢」に過ぎず、政治の推進力にはなりえなかった。しかし、現実の政治は動かせなくても、今に残るこの大作を生んだのだと思うと、感慨深いものがある。

 私は、どうしても絵画に何が描かれたか、どんな背景で描かれたかに興味を持ってしまうが、どのように描かれたか(描かれているか)の解説も面白かった。カメラを大活用し、家族や近隣の人々にポーズをつけて撮った写真を参考にして描いていたのだそうだ。作品と似通ったポーズの写真が複数掲載されている。近所の人々は大変だったろうなあ。群衆シーンで、前景の人々がわざと暗い影の中にいて、中景の人々に光が当たっているのは、舞台を見ているようだ。時には、最前列の人物が、画面の枠外にはみ出している(描き表装のトリックみたい)のは、作品と鑑賞者の境目を曖昧にしている感じがする。

 本誌には、パリ時代のミュシャの作品も多数、掲載されている。チョコレート缶やビスケット缶のデザイン、小説の挿絵も素敵だ。「本人公認素材集」を出版していたって、やっぱり光琳みたいだなあ。ミュシャを追いかけてのプラハ街歩きルポ(地図あり)も興味深い。プラハは、ヨーロッパで一度行ってみたい都市のひとつだ。

 第2特集は写真家の塩谷定好で、全く知らなかったけど、ちょっと興味が湧いた。鳥取県にある塩谷定好写真記念館は、山陰本線の赤碕駅から徒歩30分。いつか行く機会があるかしら。機会があるまで、続いていてほしい。
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大テレビドラマ博覧会(演劇博物館)+長崎版画(會津八一記念博物館)

2017-06-02 00:16:07 | 行ったもの(美術館・見仏)
早稲田大学演劇博物館 2017年度春期企画展『テレビの見る夢−大テレビドラマ博覧会』(2017年5月13日~8月6日)+早稲田大学芸術功労者顕彰記念『山田太一展』(2017年5月13日~8月6日)

 久しぶりに演劇博物館に行ってきた。本展は、テレビ創成期から現代に至る名作ドラマの数々を、映像、スチル、台本、衣裳、製作ノートなどの多彩な資料とともに振り返り、ドラマの魅力を再発見しようという展覧会。会場に入ると、年代順に当時の標準的な受像機と代表的なドラマの写真、資料が展示されている。1950年代はさすがに知らない。1960年代の『私は貝になりたい』『花の生涯』『おはなはん』等も記憶にない。私は60年代の生まれだけど、アニメばかり見ていて、まだ大人のドラマに興味はなかった。

 1970~80年代は、私の10~20代にあたるので、一番テレビを見ていていいはずだが、なぜか私はテレビに興味を失っていた。それでも『傷だらけの天使』『赤い迷路』などは、友人の会話に出てきていたから記憶している。懐かしかったのは『天下御免』(NHK、1971-72年)で、これはもう一回見たい。小学生でも楽しめたが、たぶん今見るほうが、人物や歴史背景が分かって、より楽しめると思う。90年代は等身大の恋愛ドラマの時代。2000年代を経て、2010年代は「ポスト震災ドラマの時代」として整理されていた。「幽霊の登場するドラマが増えた」という考察が面白いと思った。『民王』『逃げ恥』『カルテット』など、けっこう最近のドラマまで目配りされていた。

 資料では、和田勉さん(早稲田大学の演劇科卒)の残したスクラップブックが面白かった。1970年代くらいだろうか、ネガフィルムをそのままのサイズで焼き付けたような、小さな写真がたくさん貼り付けられていて、いろいろ書き込みがあった。展示室内では、いくつかのドラマが実際に放映されていた。古いドラマだけでなく、『トットてれび』や『あまちゃん』も。時間を忘れて見入ってしまいそうになった。あと、テレビ受像機の変遷も面白かった。ブラウン管テレビを見たのは久しぶりだったなあ。

 併設の『山田太一展』は1階の1室で。山田氏は早稲田の国文学科卒業である。ほとんどドラマを見ない私が、唯一親しんでいた脚本家だった。『男たちの旅路』シリーズ、好きだったな。『獅子の時代』は冒頭の数回しか見なかったけど、全編見直したい大河ドラマである。

 こういう展覧会も「ドラマの魅力再発見」の一助にはなると思うが、私はそれより、古い名作ドラマのコンテンツを、もっと無料配信してくれればいいのに、と思う。中国みたいに。

早稲田大学會津八一記念博物館 『富田万里子コレクション長崎版画展』(2017年5月10日~6月17日)他

 演劇博物館の帰りに通りかかったら「長崎版画」の文字が目に入り、覗いていくことにした。こちらの博物館も久しぶりである。卒業生であり画家でもある富田万里子氏の寄贈コレクションの中から、長崎版画80件余りを展示。この春、板橋区立美術館で『長崎版画と異国の面影』を見たばかりだったので、いろいろ面白かった。見た記憶のある、同工異曲の作品もある中で、「ライデン港」を描いたという、東洋とも西洋ともつかない赤・紺二色摺りの風景画が面白かった。

 図録の解説を読んでみたら、長崎版画は、筆彩や合羽摺(型紙摺り)に始まり、19世紀初め、文斎(大和屋)版が江戸錦絵の多色摺木版技法が導入したが、文錦堂や梅香堂は、相変わらず合羽摺を用いた。「版元たちには、合羽摺にこだわる何か格別な信念があったようにも思われる」というのが、とても面白い! なお、特別出品として、早稲田大学図書館所蔵の関連資料も展示。うち、『惜字帖』は、医者・蘭学者の森島中良(1756?-1810)のスクラップブックで、清朝渡来の絹織物、菓子、文房四宝等の商標や包み紙だという。冊子本の宿命で、一か所しか開けて展示できないが、ぜひ全て見てみたい。

 なお、寄贈者の富田万里子氏は「朱葉会」の同人と説明にあったので、調べたら、大正年間に設立された女流洋画家の団体だそうだ。ひとつ知識が増えた。

 このほか、武者小路実篤の書画など、いくつかのテーマ展示室をまわった。メインの展示室は、中国の陶俑、古鏡、古瓦、アイヌ衣装、書画、ヨーロッパの古地図など、雑多なものが展示されていて面白かった。目をひいたのは、教科書などでも見たことのある唐墓壁画の大きな複製。ふらふらと吸い寄せられて、食い入るように眺めてしまった。ちなみに演劇博物館も會津八一記念博物館も入場無料である。大学って、いいところだ。
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血とエロス/増補版 大江戸残酷物語(氏家幹人)

2017-06-01 06:29:18 | 読んだもの(書籍)
〇氏家幹人『増補版 大江戸残酷物語』(歴史新書) 洋泉社 2017.3

 そろそろ暑くなってきたので、血みどろ残酷物語でぞっとしてみようと思った。表紙には「生首と旅する男」「生きている屍」などと、お化け屋敷の呼び込みみたいな謳い文句が並んでいるのだが、読後感はかなり予想と違っていた。著者は、いつの頃からか江戸時代の犯罪や猟奇事件に関心を抱くようになり、これはと思った史料を筆写して整理し、ファイルに貯めてきたという。本書は、そのような史料研究の蓄積から生まれたものである。

 各章の見出しと内容を挙げていこう。「生首と旅する男」では、生首の風呂敷包みを持ち込んで、困惑する相手から金をせびって立ち去るなど、驚くべき詐欺・犯罪者の生態を紹介。「今日は処刑見物」では、引廻しや斬首の見物が、江戸時代の普通の人々の行楽の一種だったこと。「情痴の果て」は、伊藤博文が、フランス人の学者夫妻がプラトニック・ラブを説くのを聞いて「ラヴからセックスの問題を取り去って、何が残るか」を口をはさんだ話をマクラとする。貧しい農村の娘たちが、ほかに何の楽しみもない境遇で「唯男女相通じ互にしたしむを楽とし此世の思ひ出とす」という当時の認識は、今から見ても納得がいく。しかし、不倫を犯した女が、男の生首ともに川や海に流されたのを見たという伝聞記事は、伝奇的で甘美な匂いがして、ぞくぞくした。国立公文書館の企画展『漂流ものがたり』でも取り上げられていたものだ。

 「血達磨伝説」は細川家(熊本藩)に伝わる伝説。血とエロス(男どうしの)の伝説だったものが、近代には大衆化と同時に、ただの忠義物語に改変されていく。何らかの史実があるのか、細川家ゆかりの永青文庫に問い合わせたが、分からない(そもそも知らない)との回答だったそうだ。いつ頃の話だろう? 細川護煕氏が理事長となり、橋本麻里さんが副館長に就任された現在なら、もう少し関心を持って、調べてくれるのではあるまいか。「血達磨」は「血古今」だという説もあるという。詳細は本書で。

 「生きている屍」「小塚原の犬」は江戸時代の死体の埋葬について。刑死者や貧乏人は、非常に浅い埋葬だったので、簡単に犬に掘り返されてしまった。「死体を塩漬けにする話」も、以前、国立公文書館の展示で見た(高橋景保の場合)が、天文道=天門冬(てんもんどう)なら塩漬けでなく砂糖漬け、というのは、大したブラックジョークだなあ。

 「肝取り肉割く人々」では、将軍家の御様(おためし)御用=刀剣の試し斬りを代々務めた山田浅右衛門家が紹介される。山田家は試し斬り御用とともに、死体から肝や霊天蓋(頭蓋骨)などを取って薬として売りさばく権利を持っていた。興味深いのは、当時の人々が(死体を使った)試し斬りや臓器等の利活用を、さほど残酷と思っていなかったらしいことだ。終章「優しさのゆくえ」によれば、幕末、西洋医学を学ぶ者たちによって死体解剖が行われるようになったが、普通の人々の感覚では「解剖」は「試し斬り」よりずっと残酷と思われていたという。まあ、確かに斬り刻む度合でいえば…。

 「試し斬り」は男性の死体で行うもので、女性の死体は使われなかった(幕府が禁じていた)というのは初めて知った。それゆえ(?)解剖用には女性の刑死体のほうが入手しやすかったらしく、杉田玄白らが解剖に用いたのは女性の死体であるという。解剖の件数は記録に残っているより多かったに違いないとか、京都に比べて江戸の場合、「試し斬り」の山田家と死体の取り合いになるので、解剖の実施が困難だったとか、いろいろ面白い考察が述べられている。あと、幕末には、山田家と腰物方(刀剣の管理所)も忙しく、将軍からイギリスへ下賜する太刀や脇差等についても試し斬りを行っていたそうだ。いま美術館等で見る刀剣も、少なくとも死体は斬っているのだろうなあ。

 終章では、明治政府が、試し斬り・人体の一部の密売・火刑・磔刑・梟首などを、順次廃止していったことに触れる。その一方、20世紀に入っても「死体ビジネス」はひそかに、国際的な規模で続いている。70年代のドラマ『岸辺のアルバム』が、そんな社会問題も折り込んでいたことは初めて知った。21世紀の現在では、ヒトの遺伝子を埋め込んだ臓器移植用の豚(ヒトブタ)をつくったり、人体部品の売買が先進国で合法的なビジネスとして成長を遂げているという。そこには、前近代のように大量の血は流れないかもしれないが、残酷って何だろう?としみじみ考えてしまった。

 補章「薩摩の鞘割」は、刀を抜いたら死ぬまで戦う覚悟で鞘を割って捨てるという、薩摩人の闘争精神を言い表したもの。そうした並外れた(泰平の世には非常識で困りものの)薩摩藩士に関するエピソードを二つ紹介する。特に後半の、会津藩士との喧嘩の次第は面白い。抽象的な大義のためではなく、一身の名誉や仲間のために命をやりとりする熱い男たちの姿が見える。ある随筆に伝聞として残るだけで、会津藩の正史には見えない話であることを断りつつ「でも面白いじゃないか」と思って紹介するのは、歴史学者の遊び心である。
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