年間約65万人もの方々が訪れる天川(てんかわ)村は、紀伊半島の中央部に位置し、その面積の約4分の1が吉野熊野国立公園に属しています。 また近畿最高峰(八経ヶ岳)を擁する最源流の村です。 古来よりの有名な寺社等もあり、宗教の発祥と深く関わるなど、豊かな自然と歴史・文化を誇る、これらの「宝」と共に暮らしている村です。 また、標高が高いことから大阪市内などより気温が5度程度低く、避暑地として有名で、寒暖の差が激しく紅葉の名所でもあります。 大峯山 山上ヶ岳から天河大辨財天社、高野山の二大霊場を結ぶ川沿いの道を大峯高野街道といい、弘法大師「空海」が大峯修行のため往き来したといわれています。
その天川村の街道沿いにある史跡に立ち寄ってみました。
天河大辨財天社
別名「天河神社」ともいわれ、日本三大弁財天の筆頭・大峯本宮とされる霊験あらたかな神社で、芸能の神様としても有名だそうです。
能関係資料多数が保存され、我が国能楽発達史上の貴重な資料とされています。
7月の例大祭や春秋の大祭には能楽奉納もあり、数々の年中行事の中には珍しい神事も多数行われています。
栃尾観音堂 この聖地を訪れた無数の修験者の一人であった「円空」は、 江戸初期 寛永9年(1632)岐阜県羽島市近くに生まれ、23歳で出家。
寛文3年(1663)32歳の時、木仏 12万体の悲願をたてて、北海道から関西までの諸国を遍歴し、元禄8年(1695)64歳で没するまで多種多様の仏像、神像を彫り残しました。
それらの仏像を通常、円空仏と総称し、天川村で円空仏と確認されたものは、大峯山寺の「阿弥陀如来像」、天河大辨財天社の「大黒天像」、そして栃尾観音堂に「聖観音菩薩立像」、「大弁財天女立像」、「金剛童子立像」、「護法神像」の 4体が安置されいます。
どの像も円空の作風の特徴を良く表しており、見るものを惹き付ける穏やかな微笑みをたたえています。
母公堂(ははこどう) 母公堂は大峯山の歴史以来の入口でした。
修験道の始祖である役小角(えんのおづの)の母親である白専女(しらとうめ)を祀っています。
大峰山寺のある山上ヶ岳(1719m)まで 3~4時間。 近畿の屋根といわれる雄大な大峯山系がここから始まります。
山上ヶ岳への女人結界門 男女同権の世に変わり、今時こんなことがあるの と不思議に感じられる方々が多いと思われますが、1300年の歴史があり、日本固有の宗教文化であり、それが世界遺産につながったものと思われます。
大峯山寺からの解説文を是非ご一読ください。
山上ヶ岳(大峯山)は1300年の昔、開祖役行者「神変大菩薩」が開山された霊山で、修験道の根本道場として、日本国民に尊崇され今日もなお多くの方々の崇敬を集め続けております。 山上ヶ岳では、往古より仏教各宗の宗祖や高僧を始め、多くの先徳や在家の先達衆が命を賭して修行され、自利利他円満の菩薩行を心とされて、天下泰平、万民安楽、五穀豊熟を祈願されてこられました。 今日もその心と修行の法は脈々と伝えられ、厳格な修行が行われております。 また、当山はその永い歴史の中で幾多の流転を重ね、明治初期には国家権力による修験道廃止という法難にもみまわれましたが、御本尊の思し召しと、信徒の皆様の熱烈な信仰心や修験道を心の支えとされた方々のお力により、その法灯は守られ修験道の仏寺として今日に至っております。 そしてその歴史の中で、当山は女人結界を持つ聖地としての姿を守り伝えております。 この女人結界は決して、私たち修行者のみによって形作られたものではありません。 この霊山を仰ぎ見ながら、ここに心のよりどころ見出した無数の先人達が、壱千年余りの時をかけて、宗教的伝統として作り上げてきたものであります。
また、結界維持については、信徒や地元の人々と共に信仰を守り伝えてきた女性達によっても伝承されてきました。 私どもは、今日においても、山上ヶ岳の女人結界を男女問わず修験道で修行し、信仰する者の信仰心としての戒律上の結界ととらえ、あくまでも信仰者の立場をもって議論を加えつつ、且つ結界を護持いたしております。 登山者の皆様には、この壱千参百年の歴史を持つ当山の信仰に深いご理解を頂き、信仰者の声を尊重頂いて、女人結界の維持にご協力を賜りますようお願い致します。
当山は、今なお信仰が息づいている聖地「山上ヶ岳」(大峯山)が日本固有の宗教文化を伝承する地として、ユネスコの世界遺産に登録されたことを誇りに思うと共に、開祖「神変大菩薩」やこれまで修行を積まれた先徳に対し感謝の赤誠を捧げるものであります。
南無山上大権現 ・ 南無神変大菩薩 大峯山寺 敬白