鎌倉という土地の歴史の始まりは、はるか遠く旧石器時代にまで遡ります。 独自の美意識や文化を色濃くしていったのは、源 頼朝によって武家政権が誕生した鎌倉時代。
その後、江戸時代には江戸庶民が社寺を訪れるようになり、明治時代の文明開化を経て、近代には文士たちが集う文壇の中心地としてのイメージを根付かせてくれた所です。
また、平成 27(2015)年度より文化庁がスタートさせた『日本遺産』
という認定制度。
日本各地に存在する有形・無形の文化財を、その地域の歴史的なストーリーにからめ沢山の人々に認知を広めようとするものだそうです。
それに鎌倉市は、歴史的遺産と自然・文化とが調和したまちとして、平成 28(2016)年度にこの認定を受けられたとのことです。
そんな事は露知らず、殆ど歩かない中学の同級生 5人と行き当たりばっ旅の感じで鎌倉に
向かいました。
当初は北鎌倉へ行こうとの話が、電車の中で
江ノ電に乗り海を見ながら行こうと急きょ変更になり、文明の利器 ICカードを持たない人がいたので、藤沢駅で精算所に向かう。
全てがスローで、歩くのも遅い。
今日は何ヵ所の寺社を回れるのか
鎌倉の空気が吸えるだけでも良いだろう。
江ノ電の由比ヶ浜駅下車 10時半を回っていた。
駅から北西に進み、バス通りである由比ヶ浜大通りを横断し、ツバキに囲まれた石畳の小道を緩やかに登って行く。
そこは鎌倉ゆかりの文学者たちの足跡が辿れる、旧加賀藩前田家 16代当主「前田利為(としなり)」の別邸であった『鎌倉文学館』
である。
相模湾を
一望する高台にあり、一寸見頃を過ぎていましたが海側にあるバラ園で遅咲きの花が見られました。
この文学館では、教科書で知った沢山の文学者の直筆原稿や手紙、愛用品などが展示され、特に何度も訂正した直筆原稿を見ると作品を執筆する大変さが読んで取れました。
それぞれが好きな文士の生い立ちや作品に目を通したりで 12時を回ってしまい、鎌倉駅に向かい食事を済ませた。
午後は鎌倉駅から金沢街道を走る バスで浄明寺まで乗り、鎌倉五山五位の
浄妙寺
に向かった。 こちらの寺は稲荷山と号し、臨済宗建長寺派の古刹である。 源 頼朝の忠臣で豪勇の士であった足利 義兼(1199没)が文治 4年(1188)に創建し、初め極楽寺と称した。
開山は退耕行勇(たいこうぎょうゆう)律師で、当初は密教系の寺院であったが、建長寺開山蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)の弟子 月峯了然(げっぽうりょうねん)が住職となってから禅刹に改め、ついで寺名も浄妙寺と改称したとのことです。
この後は、バス通りである金沢街道を徒歩で鎌倉駅に戻りながら、街道両脇にある寺社に立ち寄った。
足利 尊氏の祖父、家時が開基し、建武元年(1334)に創建された臨済宗寺院
『報国寺』
。
古くから境内の孟宗竹の林が有名で
「竹庭の寺」
と呼ばれています。
平日であったが、あまりの混雑で竹林に入らず、次に
移動。
天平 6年(734)に行基(ぎょうき)が開山した鎌倉最古の寺『杉本寺』
。
茅葺き屋根の本堂には本尊の十一面観音菩薩が 3体あり、そのうち 2体は国指定の重要文化財。本堂に上がり、間近に拝見することができます。
鎌倉時代の火災の時に 3体の観音菩薩が自ら大杉の下に避難したことから「杉の本の観音」と呼ばれたとのことです。
坂東三十三観音霊場の第一番札所であります。
苔むしてすり減った石段に、長い歴史を感じます。
もうこの歳になると急ぐことはしない、ノンビリ・キョロキョロ、紅葉ヶ谷と呼ばれる車の少ない道を進む。
臨済宗の禅僧、夢窓疎石(むそうそせき)が嘉暦 2年(1327)に開山した『瑞泉寺』に 15時
到着。
梅・桜・スイセン・新緑
・紅葉
など四季折々の美しい
花が彩る寺。
「谷戸」(やと)と呼ばれる多くの谷が連なる鎌倉は 15時ともなると、谷間は暗く、日差しのある所は明る過ぎるという明暗の差が大きく、素人では写真撮影が難しい。
足利 基氏をはじめ、代々の鎌倉公方の菩提寺として高い格式を誇り、また夢窓疎石が岩盤を削って作ったといわれる岩の庭は、書院庭園の元となり、国の名勝に指定されているとのことです。
瑞泉寺から戻りながら、鎌倉宮の北側に昭和 58年~平成 8年にかけて約15,800㎡の発掘調査が行われ、当時の伽藍配置や苑池が発掘された国指定史跡『永福寺跡』(ようふくじあと)
に立ち寄りました。
到着 15時半。 鎌倉には沢山の神社仏閣が見られるが、みな境内は狭い所が多いのに、こんなに広い場所があるのに驚きました。
永福寺は、源 頼朝が文治 5年(1189)奥州平泉を攻めた後、戦いで亡くなった数万の将兵の鎮魂のために、平泉で見た
毛越寺
や
中尊寺
を模して建立を思い立ったとされています。
頼朝が征夷大将軍に任命された建久 3年(1192)に中心の二階堂が完成しました。
この堂の名は、現在の地名ともなっています。
建久 5年(1194)までに、二階堂の両脇の阿弥陀堂、薬師堂が完成します。
この三つの堂を中心に惣門、南門、釣殿、多宝塔、鐘楼、僧坊などの建物があったとされ、当時の旅日記
などの文献には
「その姿形は極楽の様子をそのまま表したようだ。」
と形容されているとのことであります。
私達も当時の推定復元図
を見ましたが、何と京都の宇治平等院とそっくりで、ビックリしました。
建物の礎石はありましたが、それだけでなく関東の平等院として再建されたら凄いですね。