静岡県浜松市天竜区水窪(みさくぼ)町の信遠国境警備を目的として築かれた城に登城して来ました。 城名は高根城と申し、遠江(とおとうみ)最北端に位置する山城で、標高 420m・比高 150mの通称三角山の山頂部を中心に築かれています。
城址からは、水窪町中心部および北遠江と南信濃を結ぶ主要街道を見下ろすことができる。
高根城は、この一本の主要街道を押さえることが目的でした。
平成 6年~11年にかけて、本曲輪(ほんくるわ)を中心に発掘調査が実施され、出土遺物から15世紀前半、地元国人領主 奥山氏が築いたと考えられています。
『遠江国(とうとうみのくに)風土記伝』によると、永禄年中(1558~1570)に信州の遠山土佐守(とおやまとさのかみ)に攻められ落城したと伝わる。
永禄 12年(1569)には、今川 氏真(うじざね)・徳川 家康双方から所領安堵状(あんどじょう=所有権・領有権などを承認した公文書)を、元亀 3年(1572)には武田信玄からも安堵状を得ている。
遠州忩劇(そうげき)の頃、奥山氏内部で今川・徳川・武田のどこに組するかで内部分裂が起こり、奥山惣領家が滅亡し、最終的に武田配下に組み込まれた可能性が高いようです。
また発掘調査で、最も注目されるのは、各曲輪間を結ぶ城内道が完全な形で検出されたことだそうです。 幅約一間(約1.8m)の道は、三の曲輪から土橋を利用し、二の曲輪東中段を真っ直ぐ通り、梯子によって二の曲輪下段へと上がる。 ここからは、木橋を通り、直角に曲がり、城門をくぐり、更に三度直角に折れ曲がり、本曲輪搦手門(からめてもん)へと至る構造であったとのことです。
日本最大の城郭遺構を誇る『姫路城』でも、本丸まで行くには迷路のようになっており、その様子がとてもコンパクトに表現されていました。
全国的にみても、完全な形で城内道が検出された事例はなく、戦国期の城内構造を知る貴重な遺構と評価されています。
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