素晴らしい風景!!

色々歩いた山や国内の風景等をご紹介いたします。

👞 旅人、箱根旧街道を歩く 👞

2024年10月12日 | 日本の歴史

小田原から三島までの道のりを『箱根八里』といい、街道で最も難路であったと云われていました。                                               この八里のうちの二里半(約 10Km)が箱根旧街道の東坂となります。                  江戸幕府が開いた旧東海道。                                             かつては竹を敷いていたそうですが、その後「二子石」など周辺の石材を使って石畳の道となったようです。

箱根湯本駅から元箱根への箱根旧街道東坂を、江戸時代の旅人気分に浸りながら歩いて来ました。                                                       箱根湯本駅を7時 46分出発。

駅前通りを南西に進み温泉街を抜けて県道に出た。                        県道は狭く、意外と車が多いので、気にしながら登る。                     途中、正眼寺に寄り仇討ちで有名な曽我兄弟の菩薩供養の堂宇「曽我堂」を参拝したりとノンビリ進んだ。                                                 8時 37分、県道と別れる箱根旧街道入口を通過。右下に下る。

ここは一時的に県道を外れるが、再び県道に戻ります。                           この県道の下に延宝8年(1680)江戸幕府が箱根旧街道に石を敷いたと云われる面影の残る道が約 255m程あるとのことで、そこを歩かせてくれる為にわざわざ県道を外れているのです。  国の史跡に指定されています。 

再び県道に戻り、9時 16分 須雲川自然探勝歩道入口を通過。

ここから須雲川に下ります。

10分ほど下ると三枚橋発電所の沈砂池に突き当たり、右に下ると須雲川に出ます。       ここは大雨で増水している時は県道歩きとなりますが、普段は丸太橋で左岸に渡ります。

川から上がると県道に出ますが、目の前に「割石坂」と標示された案内板があり、その横の遊歩道を登って行きます。

登り出して直ぐに石畳となり距離は短いようですが、部分的に江戸時代の石が再利用されているとのことです。

箱根旧街道に沿って県道が造られているようで、何度も横断しながら登って行きます。    9時 46分、箱根旧街道の道標に従い石段を下り、飛龍ノ滝から流れる沢を渡り山道を進む。

登り返しは苔むした急な石畳「大澤坂」を登る。

急な大澤坂を登り切り車道に出た所が『畑宿』です。10時 03分通過。

江戸時代初め、徳川幕府は街道や宿場を整備し交通基盤を整え、更に距離を明確にするため、街道の一里(約4Km)毎に一里塚を置きました。

寄木細工の店が並ぶ畑宿、三連休前の平日であり畑宿寄木会館はお休みでした。

 

一里塚は旅人にとって旅の進み具合が分かる目印であると同時に、塚の上に植えられた木は夏には木陰をつくり冬には寒風を防いでくれる格好の休息場所にもなりました。

旧街道一里塚の石柱前から、更に石畳を進みます。

車では急坂を大きく蛇行しながら登って行きますが、旅人は小さな石畳の歩道橋を渡り、蛇行せずに西海子坂(さいかちざか)の急坂の登りが始まります。                           ここを登り切ると七曲がりの車道歩きになりますが、歩道が確保されています。

橿木坂(かしきさか)通過、10時 26分。

車は蛇行して登る所を、旅人は急階段を幾つも登らなければならず厳しかった。           見晴茶屋への分岐点に到着、10時 45分。

見晴茶屋前の広場から休憩しながら眺めた、湯本方面と相模湾。                     登ってきたなァ~ と感じ、疲れが飛ぶ。

見晴茶屋を過ぎると西側に聳える下二子山(標高 1065m)の南側を巻くように進み、甘酒茶屋を目指します。

                                                  山根橋通過。

                            

箱根旧街道には❝ 雲助 ❞と呼ばれる人たちが居ました。                            『箱根の雲助』というと、何か?悪者の様に思われていますが、実は小田原の問屋場で働く人足達だったのです。                                             ただ、❝ 雲助 ❞という悪者は ほんの一部の人で、問屋場では人足を登録させ仕事を割り当てていましたので、悪さをした人などいなかったといいます。

日本交通史論という資料によりますと、❝ 雲助 ❞になるのは次の3つにパスしなければならなかったそうです。その内容をみると、なかなか難しく誰でも直ぐになれるという職業ではなかった。

 力が非常に強いこと。                                             これは仕事の性質上絶対に必要なことでした。

 荷物の荷造りが優れていること。                                      荷物を見ると、誰が造ったものかわかるそうです。                              箱根で一度荷造りした荷物は京都まで決して壊れることはなかったそうです。

  を歌うのが上手でないと一流の❝ 雲助 ❞とは言われなかったそうです。

                               

甘酒橋通過、10時 52分。

猿滑(さるすべり)坂通過。                                                 こちらは『新編相模国風土記稿』に「殊(こと)に危険、猿猴(えんこう)といえども、やすく登り得ず よりて名とす」と難所らしい坂の名の由来が書かれているとのことです。

追込坂通過、11時 11分。                                           ここまで来ると車道の一段上を歩く平坦な道となり、甘酒茶屋近し。

11時 25分、甘酒茶屋到着。                                          道中には「甘酒」をふるまう茶屋が設けられる様になり、文政年間(1818~1829)には『甘酒小屋』と記録があり、箱根地域には9か所設けられていたようです。

江戸時代、徳川幕府は人々や物資の往来が盛んになるように街道の整備を行いました。    東海道は その中でも主要な街道で、この箱根地域(湯本~箱根関所間、通称「東坂:ひがしざか」)は道が大変険しく、当時の旅人が普通1日十里(一里は4Km)を旅するところ、箱根地域では八里しか歩けなかったようです。

 

甘酒茶屋付近で見かけたノコンギクとホトトギス。

旧街道最高地点に近い最後の石畳入口通過、11時 44分。

最初はこれほど長い石畳の道が続いているとは思っていなかったが、最後の石畳はじっくりと味わいながら歩いた。

権現坂からコースを外れるが、お玉ヶ池に寄ってみた。                           左:二子山、右:下二子山がスッキリと見えた。

再び、権現坂に戻る。12時 35分。

芦ノ湖に向けて一気に石畳を下る。

12時 39分、杉並木が見えた~ッ 

 

薄暗い所が長かったので、明るい芦ノ湖畔に出てみた。富士が少し顔を出してくれていた。

13時15分、ゴールとしていた箱根関所に無事到着いたしました。 

 

箱根旧街道、予想以上に長い石畳を歩けて十分満足しました。                        湿気があり石に苔が付いていたりするので、今はスリップに注意しないといけないですが、昔の旅人は草鞋(わらじ)でしたから安全に歩けたのですね。

 

 

 

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ★ 小さな町の阿波おどり ★ | トップ | 🚢 横浜開港当時の神奈川宿を... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日本の歴史」カテゴリの最新記事