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富山の都市計画の中で生まれた富岩運河と環水公園

2024年11月23日 | 土木構造物・土木遺産


富山に来た最大の目的は運河、富山市内にある「富岩(ふがん)運河」そのものと、「環水公園」等の関連施設を見に来た。以前、江戸期から機能していた仙台の「貞山運河」に触れたことはあったが、富岩運河は昭和初期になって開削されたもので、その後富山のまちづくりと密接に関係することになった。
富岩運河は、1930年(昭和5年)着工、1935年完成。富山駅北側から神通川に並行して河口近くにある岩瀬(東岩瀬港)までの約5キロの運河だ。この運河の完成により、工業資材や木材などの運搬が容易になり、運河沿岸は工業都市・富山を形成するきっかけとなった。
ただ、単に運河を整備するというだけではなく、都市計画事業として市街地の区画整理、街路、公園整備を一体的に行うというもの。これは内務省技師・赤司貫一(あかし・かんいち)の立案で、当時「日本初の試み」として称賛されるモデル的事業になるのである。(運河の誕生には、神通川の洪水の歴史、馳越(はせこし)線工事や旧神通川(松川)の跡地埋立などが深く関連するのだが、それらは次回以降に!)



しかし、時代の流れによって、物流は船からトラックに変わり、運河も貯木場に利用される程度で通行する船も少なく、水質悪化、悪臭などにより埋立てて道路にする計画が持ち上がったのは昭和50年台(1980年頃)。しかし富山県は、市街地の貴重な水辺として活用を図ると方針を大変換した。
1985年(昭和60)に旧建設省の「新都市拠点整備事業」の一環として、富山市も「とやま都市MIRAI地区」として富山駅北62ヘクタールを再整備することになり、1988年着手。運河の南端にあった船溜まり一帯を「富岩運河環水公園」として整備することとし、20余年の長い年月をかけて憩いの場と水に親しむ環境を作り出した。(富山駅方向は、まだ工事は進んでいるようだが…)
公園のシンボル「天門橋(見出し写真と写真上)」のほか、美術館や野鳥観察舎、野外劇場(写真下)などの公共施設のほか、公園を望める場所にレストラン・カフェなどがある。公園内の「スターバックスコーヒー富山環水公園店(写真下)」は全世界のスタバの中から、最も優れたデザイン店舗にも選ばれている。とにかく富山駅に近い(徒歩でも10分弱)場所に広大な公園があり、素敵な水辺の空間が収まっている。富山の新しいランドマークになっている。



この大事業にもつながった富岩運河と都市計画事業だが、赤司貫一は土木界では有名ではあるものの、市民にはその名があまり認知されていないように思える。常願寺川の砂防工事において功労を称えられているデレーケや赤木正雄との違いは何か?砂防・治水は直接的に災害を防ぐという意味では重要だが、都市計画事業は少しインパクトに弱い?
確かに人命にかかわる問題と生活利便性は比にならないということかもしれないが、羨ましいほどの素敵な公園を持つ富山市であるものの、「シティブランド・ランキング(住みよい街2021・県庁所在地)」で32位(新潟市31位、1位は福岡市)。市民や行政は富岩運河や環水公園の存在、そしてランキングをどのようにとらえているのだろうか?
旧建設省OBで白井芳樹氏という人がいる。長年富山県で都市計画・土木行政にかかわり、富山県土木部長も歴任した方である。この方が富山の都市計画事業や赤司貫一について著書を出版したり講演活動を行っているようであるが、赤司貫一について公園の一角にでも紹介するコーナーを作ってほしいと思うのは私だけ?
(写真下:環水公園から富岩運河へ、次回は「富山水上ライン」に乗船して富岩運河を紹介する。)



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