many books 参考文献

好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

袖のボタン

2021-09-26 18:07:03 | 丸谷才一

丸谷才一 二〇〇七年 朝日新聞社
丸谷さんの随筆集、たしか去年の二月ころ買い求めた古本、最近やっと読んだ。
丸谷さんの持ってないもの見つけると、とりあえず買ったりすんだけど、手元にあると安心して読まずにいたりするのは悪いクセだ。
まあ丸谷さんのものは発表順に読まなきゃなんないという種類のものではないから、見つける先から手に入れて、気の向いた順にぼちぼち読んでいけば、それで楽しい。
初出は「朝日新聞」の2004年4月から2007年3月まで月イチ朝刊連載だという、全36篇。
新聞連載のせいか、分量は気持ち短い感じ、単行本で一篇あたり5ページ程度。っていうか、長さがどれもおんなじってのは、新聞載せるからだろう、きっちり字数書くのも大変そうだが、新聞って空白恐怖症のようにスペース埋めたがるからねえ、個人的には随筆集は長いのや短いのがいろいろあるほうが好きだ。
内容は多岐にわたってて、天皇の恋歌とか、日本文学の原点は恋歌だとか、2005年は「新古今800年」だとか、得意の文学史ネタもいっぱいあるが、グッと近代にきて『坊つちやん』の話なんかがおもしろい。
>普通に読めば、これは差別の小説だ。東京者の語り手=主人公が地方を侮辱し罵倒する。その連続である。校長から教員心得を聞かされると、「そんなえらい人が月給四十円で遙々こんな田舎へくるもんか」と心中でつぶやく。町並を見ての感想は「こんな所に住んでご城下だ抔と威張つてる人間は可哀想」といふのである。(略)温泉へゆく電車は、(略)自分は上等を奮発して白切符だが、「田舎者はけちだから、たつた二銭の出入でも頗る苦になると見えて、大抵は下等へ乗る」と詰まらぬ所で差をつける。何もかうまで言はなくてもいいだらうとたしなめたくなるほどの言ひたい放題である。(p.170)
ということで、こんなにひどいことを言われても松山の人々は小説の舞台であることを喜び、誇りに思い、「坊つちやんスタジアム」などと命名したりして、寛大なのはどうしてか、と疑問に思い、答えを考える。
この、どうでもよさそうなことを問題意識としてとらえ、大胆な仮説を立てたりするのは、丸谷さんの随筆のいいところだ。
>(略)『坊つちやん』では松山を拉し来つて日本人の島国根性を非難してゐる。識見の低さ、夜郎自大、洗練を欠く趣味、時代おくれを咎めるのに、日本の縮図として四国の一都市を用ゐたのだ。(p.173)
という漱石の日本批判という意図を理解して、自分たちの町を使って名作ができたことを理解している、松山の人々の読解力はすばらしい、というのが今回の結論となっている。
よく採りあげられる『源氏物語』についても、おもしろいのがひとつあって、これは丸谷さんの発見ではなく、伊東祐子『源氏物語の引歌の種々相』に刺激を受けたという話ではあるが。
村上天皇の女御となる藤原芳子は、父親の左大臣師尹から、后の条件のひとつとして『古今集』の和歌全部の暗記を求められたという例をあげて、
>和歌を覚えるのは、一つには自分で詠むためだが、もう一つは会話のため。当時の貴族階級には、会話のなかに古歌の一部を引用する風習があつた。これを引歌といふ。
>(略)引歌は婉曲表現であり、教養の見せびらかしであり、同じ教養の持主同士の親愛の情の表明である、古典主義的な社交術であつた。(p.155-156)
と引歌文化を説明してくれたうえで、『源氏物語』の後半のほうの浮舟に関するエピソードにおいて、匂宮も薫大将も浮舟に語りかけるときに引歌を使わないということについて、
>言ふまでもなく引歌は相手がそれを理解することを前提としてゐる。たしなみのない相手には古典を引いても意味がない。そして浮舟は、(略)東育ちである。当時、関東は辺境であり、言葉づかひも違ふ。ぐんと低く見られてゐた。そんなわけで二人の貴公子は、受領(地方官)の子である東少女を見下し、軽んじてゐた。宮廷的な教養と趣味を身につけてゐない田舎者としておとしめてゐた。さういふ階級的=地域的蔑視の具体的な表現が引歌なしの会話だつたのである。(p.157)
と解説してくれる、すごい小説だ、王朝風俗をみごとに写し出しているというわけだ、教えてもらうとちゃんと読んだことない私でも感心してしまう。
『源氏物語』と関連するところでは、「モノノアハレ」の項も興味深かった。
>これは日本美の典型的概念として名高いが、茫漠としてとりとめがない。一番困るのはモノが何を指すのかわからぬこと。(p.105)
というとこから解説が始まるんだが、そうなんだよ、テストに出るからって「もののあわれ」って単語を暗記はするんだけど、なんのことかはよくわかんないままなんだよ、学校の国語の時間。
モノについては、大野晋説を引用するんだが、タミル語の起源はよくわからぬが、とにかく日本語モノには二つあると。
ひとつは「鬼=モノ」であり、もうひとつは「不変のもの、さだめ、きまり」の意味であるという。
>なお、モノに「物体」といふ意味があるのは、「不動不変の存在→さだまつた形の存在→物体」と日本語のなかで展開したのである。こちらが先ではない。(p.106)
として、万葉集の「世の中はむなしきモノと知るときしいよよますます悲しかりけり」という歌で、モノは「さだめ、きまり」という意味だとわかるだろうという。
>モノノアハレは、従つて、モノ(必然的な掟、宿命、道理)のせいでの情趣、哀愁を言ふ。四季の移り変りはどんなことがあつても改まることのない必然で、そのことが心をゆすぶる。それがモノノアハレ。男と女はどれほど愛しあつてゐても、いつかはかならず、生別か死別かはともかく別れなければならぬ。その切なさもまたモノノアハレ。すべてさういふ自然と人生の成り行きの悲哀、人の運命のはかなさをわきまへ、さらには味はふことを、王朝の人々は「モノノアハレを知る」として褒めたたへた。賢くて趣味がいいと評価したのである。(p.106-107)
という説明で、長年のモヤモヤが多少は晴れた、そうかあ、そうなんだ。
で、『源氏物語』は男女の仲と季節の移り変わりを見事に描いているものだとして、
>あの物語の文体は情感にみちてゐてしかも論理的である。主題がモノノアハレであると同時に、文章の書き方自体がアハレとモノの双方をよく押へる筆法で、情理を盡してゐる。(略)しかしこの情緒的な表現といふ面では現代日本人もずいぶん長けてゐるが、論理性のほうはどうだらうか。かなり問題がありさうな気がする。われわれの散文は、モノとアハレの双方をよく表現できるやうに成熟しなければならない。(p.108)
と古典をほめる一方で、現代日本人にもチクリと警鐘のようなもの鳴らす、そうだよなあ、エモいとかつぶやいてるだけぢゃ何言いたいのかわかんないからねえ。
現代日本の文章表現については、「新聞と読者」という章でおもしろいことを言っている。
いわく、新聞は、新聞社の社員・文筆業者・広告関係者・読者の四種類の人々の協力でできるが、丸谷さんは読者投稿を読むのが好きで、ときどきなかなかうまいものがあるという。
>(略)しかしわたしはかねがね、日本の新聞の読者投稿欄には自己身辺のことに材を取つた感想文が多すぎると思つてゐる。むしろ新聞のニュース、写真、論説、コラム、評論などに対する賛否の反応を寄せるのが本筋ではないか。(略)
>わたしはイギリスの週刊新聞をいくつか読んでゐるのだが、どうもこの点が大きく違ふ。向うの投書は読んだばかりの紙面をきつかけにして対話し、論證しようとする。公的である。こちらの場合はそれよりもむしろ日常生活によつて触発される傾向が強く、私的であり、独白的であり、情緒的になりがちである。(略)
>イギリスの新聞の投書欄は(略)、編集長をいはば首相兼議長役にして(略)四者が共通の話題をめぐり論議をつくす点で、あの国の政治の雛形になつてゐる。それとも、新聞の一隅がかういふ調子になるくらゐだから、政治もあのやうな仕組になると見るべきか。もちろんこの根底には、民主政治は血統や金力によるのではなく言葉の力を重んじるといふ大前提があるにしても。そこでわたしは、われわれの読者投稿欄がもつと充実し、甲論乙駁が盛んにおこなはれ、対話と論證の気風が世に高まれば、政治もおのづから改まり、他愛もない片言隻句を弄するだけの人物が人気を博することなどなくなるだらうと考へて、自国の前途に希望をいだくのである。(p.40-41)
ということで、私小説関連の文学論にいくかと思いきや、民主主義政治へと展開されてったんで驚いた。
これ、たぶん2004年ころの話だろうけど、そのあと政治は良くなったとは言えないだろうし。
言葉を大事にしないし、説明をしようとしないし、まあ人によるんだろうけど、さらに情緒的なほうへ流れてるような気もしないでもない。
ヘンにデジタルな方向へ走り出して、選挙もイイねボタンをプチっと押すだけとかって世界になったら、政治家の言葉なんか聞かなくて、貼ってある面白おかしい写真が気に入っただけで有権者が投票するんぢゃないかと。
閑話休題。
政治の話もあって、
>小泉前首相の語り口はワン・フレーズ・ポリティクスでいけないといふ、あの非難を耳にするたびに、おや、と思つた。物心ついてからこの方、日本の政治はみなワン・フレーズであつたからだ。(p.159)
で始まる一節では、戦前戦中は、「五族協和」とか「国体明徴」とか「万世一系」とか「八紘一宇」とか「聖戦完遂」とかしきりに言って、最後は「本土決戦」「一億玉砕」とか強がっていたし、戦後も「曲学阿世」とか「所得倍増」とか「列島改造」とか「不沈空母」とか、簡潔鮮明で威勢がいい四字熟語づくしだったという。
しかし、四字熟語もだんだん威厳が薄れ、「四字熟語辞典」が出版されるようぢゃ賞味期限が切れたとする。
>その政治的言語の危機に際して、「感動した!」とか「人生いろいろ、会社もいろいろ」とか、他愛もないけれどもとにかく新しい手口を工夫したのが小泉前首相である。
>他愛もないのは、咄嗟の発言だから仕方がないと同情することもできる。しかしじつくり準備したときは記憶に残る名せりふは出なかつた。(略)わたしとしては、ざつかけなくても構はないから、もうすこし内容のあることを、順序を立てて言つてもらひたかつた。(p.160-161)
というように、短い口語性の新しい言語表現自体は否定しないけど、中身がどうなのって残念がる。
それから、次に首相に就任した人については、出版された新書を読んでみたんだけど、疑問をもったという。
>本の書き方が無器用なのは咎めないとしても、事柄が頭にすつきりはいらないのは困る。挿話をたくさん入れて筋を運ぶ手法はいいけれど、話の端々にいろいろ気がかりなことが多くて、それをうまくさばけないため、論旨がきれいに展開しない。議論が常に失速する。(略)
>一体に言ひはぐらかしの多い人で、さうしてゐるうちに話が別のことに移る。これは言質を取られまいとする慎重さよりも、言ふべきことが乏しいせいではないかと心配になつた。(p.161-162)
という具合になかなか厳しい。残る印象は「戦前的価値観への郷愁の人」だともいう。(短かった第一次政権のときに本質を見抜いてるのは、さすが丸谷さん。)
そして、民主政治は言葉によって行われるとして、易しい言葉しか使わない短い演説で人心を奮い立たせたリンカーンの例などをあげて、
>民衆が政治家に、言葉の力を発揮させてゐるのだ。社会全体のさういふ知的な要望があつて、はじめて言葉は洗練され、エネルギーを持つ。(p.162)
というように、またしても国民レベルでの対話と論証の言葉の使いように問題意識はおかれる。
>しかし今の日本の政治では、相変らず言葉以外のものが効果があるのではないか。わたしは二世、三世の国会議員を一概に否定する者ではないけれど、その比率が極めて高いことには不満をいだいてゐる。『美しい国へ』でも、父(略)や祖父(略)や大叔父(略)の名が然るべき所に出て来て、なるほど、血筋や家柄に頼れば言葉は大事でなくなるわけか、などと思つた。(p.163)
と最後まで厳しくて、政治についてこんなぐあいに意見する人だったけか丸谷さん? と思ったし、媒体が朝日新聞だから何か依頼されてるのかと勘繰っちゃったりもしたが、やっぱ言葉をおろそかにしてんのみると言わずにはいられないんだろうなと。
コンテンツは以下のとおり。
歌会始に恋歌を
元号そして改元
東京大空襲のこと
内の美と外の美
日本人と野球
街に樹と水を
新聞と読者
「吉田秀和全集」完結
釋迢空といふ名前
日本文学の原点
演劇的人間
「新古今」800年
『野火』を読み返す
反小説
赤塚不二夫論
石原都知事に逆らつて
水戸室内管弦楽団
天に二日あり
中島敦を読み返す
モノノアハレ
琳派、RIMPA
日本美とバーコード
守るも攻むるも
共和国と帝国
画集の快楽
妄想ふたつ
新しい歌舞伎座のために
谷川俊太郎の詠物詩
相撲と和歌
浮舟のこと
政治と言葉
講談社そして大久保房男
『坊つちやん』100年
歴史の勉強
植木に水をあげる?
岩波文庫創刊80周年

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする