A・マンゾーニ/平川祐弘訳(←訳者の名前、シメスヘンは示だけど変換ないんで) 二〇〇六年 河出文庫版・上中下3巻
これ中古の文庫が三冊そろいでならんでんの見つけてサクッと買ったのは去年の2月のことだった。
でも読み始めたのは去年の12月くらいからだったかな、なんか長い外国文学って読むの大変そうじゃんって、なかなか手に取る順番あとまわしにしがちだった。
読んでみたら、文章は読みやすいし、ぎっちり文字がうまってるわけぢゃなし、5,6ページに一度って感じのわりでページ半分大の挿絵なんか入ってきて、そんな疲れないんで読み通すことができた。
この「イタリア文学の最高峰」(上巻の帯による)を読んでみなくっちゃと私が思ったのは、例によって丸谷才一さんの影響なんだけど、最初に意識したのは『快楽としての読書 海外篇』だったか『どこ吹く風』だったか定かぢゃないけど。
なにしろ、
>この、湖上から故郷の村に別れを告げるくだりの、小説的叙述と自然描写との組合せは、嘆賞するしかない技巧の妙だが、開巻第一のコーモ湖近辺の地形の説明と言ひ、その他いろいろの箇所と言ひ、一体にマンゾーニは地理と風景を描くのが上手だつた。(『快楽としての読書 海外篇』p.41「マンゾーニ『いいなづけ』の書評を書き直す」)
とか、
>この壁画的な大長篇小説は、イタリア社会を上流から下層まで縦断する多様な群像が描かれてゐて、どれもみなすばらしい。(同p.44)
とか、
>風景や登場人物の描き方と並んで賞讃に価するのは、筋を展開してゆく語り口である。(略)大規模な流転の物語を、新しい局面ごとに手口を工夫し、二度と同じ細工は使はずに(略)到達点まで一糸乱れず運んでゆく筆力は恐ろしいくらゐだ。(同p.44)
とか絶賛されてるんで、気になっちゃってしかたない。
ちなみに、この丸谷さんの書評は、この文庫の上巻の巻末にも「イタリア社会が眼前にそそり立つ」というタイトルで収められている。
オリジナルが刊行されたのは1825年から1827年ころだそうだが、サブタイトルが「17世紀ミラーノの物語」っていうように、物語の舞台は1628年から1630年にかけてのイタリアである。
本名ロレンツォ・トラマリーノ、通称レンツォは農業もやる絹糸作り職人として腕のよい若者で、同じ村のルチーアと結婚式を挙げるばっかりになっていた。
ところが領主ドン・ロドリーゴがルチーアに目をつけて横取りしてやろうと考えたもんだから、乱暴そうな手下を使って、村のアッボンディオ司祭に、結婚式をとりおこなうんぢゃないって脅しをかけた。
この司祭が臆病もので、我が身可愛さに脅しに屈して、レンツォに対してあれこれ口実を並べ立てて式を先延ばしにする。
レンツォは司祭の下女ペルペートゥアから内情を聞き出して激怒する、どうでもいいけど、この「臆病者の司祭と出しやばりでおしやべりな下女(前出・丸谷才一による表現)」のコンビの人物描写はじつにおもしろい。
ルチーアと母アニェーゼは、もっとえらい神父さんで聖人とまで呼ばれてるクリストーフォロ神父に助けを求める、神父は領主ロドリーゴのとこへ談判に行ってくれるが事態は改善しない。
それどころか領主ロドリーゴは、ルチーアの誘拐を企てるんで、危機を避けてレンツォとルチーアとアニェーゼは故郷を捨てて他の土地へ逃げる。
レンツォと母娘はいったん別行動をとることにする。レンツォはミラーノに行ったんだが、ひどい不作の年でパンの値段が高騰してたりしたせいで、市中では暴動が起きてた、騒動に巻き込まれたレンツォはカッカしやすい性格のせいもあって、暴動を企てた容疑のお尋ね者になってしまったので、逃亡する。
ルチーアは修道院に保護されるんだが、ここにも悪の手は伸びてくる、尼僧院長のジェルトルーデって女性は貴族の家の出身なんだが、望まぬ出家をしたとかいろいろ屈折あってか悪いやつとのつきあいがある。
裏切られたルチーアは悪党たちに引き渡されてしまうんだが、ロドリーゴの依頼でその誘拐をしたはずの悪の大将インノミナートは、人生の晩年にさしかかってることもあってか、事件直後に劇的な改心をする、ルチーアの釈放だけぢゃなく、今後は悪事をやめるという。
それはそうと、当時のイタリアはスペインの支配下にあったそうなんだが、1629年にはドイツ傭兵部隊が侵攻してくる、通り道にある村々の人々は殺戮略奪を恐れて山の中とかへ逃げる。
ただでさえ戦乱で荒れたとこに、1630年にはペストが大流行、発症者は隔離されるがその収容所は環境わるいし、日々たくさん出る死者は掘られた壕に次々と埋められてく惨状。
われらがレンツォもペストにかかるんだが、若いからか主人公だからか治ってしまう、免疫できちゃえばどこへ行ってもこわいものはないんだけど、世の中にはペストを拡散させている輩がいるってデマが拡がってて、その犯人ぢゃないかと疑われる難に会う。
ミラーノの収容所内でついにルチーアと再会することができるんだけど、ルチーアは先に誘拐されたときに、ここから無事に出られたなら私は一生独りでいます、なんて誓いをマリヤ様に起ててしまったので、もう来てくれるなとレンツォに言う。
でも、クリストーフォロ神父が教会の名においてルチーアの願を解いてくれたので、主人公の二人若きいいなづけ同士は最後は結ばれてめでたしめでたしとなる。
後年、父親となったレンツォは、子どもたちに自分の身の上話を聞かせたというんだが、
>「俺が習ったことというのはね」
>とレンツォは繰返し語った、
>「暴動には決して捲きこまれるなということ。広場で演説をぶつなということ。酒を飲みすぎるなということ。傍に頭がかっかした連中がいる時は人様の玄関のノッカーをあまり長く握ったりするなということ。なにが起るやも考えずに足首に鈴を結えつけるなということ」等々。(下巻p.378)
と自身のあったひどいめを教訓として並べ立てたもんだ、って書きかたはおもしろくていい。
むかしのヨーロッパの小説にたまにある、匿名の原著者による原稿を発見したんで、それに手を入れて出版しますって形式をとってたりする。
新たな主要登場人物が出てくると、その人物のそこまでの半生を語るために章の大半を割いてたりして、おいおい本筋はどこいったってせっかちな人なら言いそうだけど、そういうのが長篇小説を読む楽しみだったりするよね。