モーツァルト 持ってるCDは1991年ソニー レナード・バーンスタイン指揮 ニューヨーク・フィルハーモニック
録音は40番が1963年5月、41番が1968年1月だって。
暑いね、6月なのに32度超えちゃってるらしい、外にはあまり出たくない。むずかしい本読んだりもしたくない。
これは、こないだ「新世界より」といっしょに見つけたCD、長く聴いてなかったことになる。
まあ、そうでしょ、べつにクラシック聴く趣味があるわけではない、ただ持ってて何かのときにチョロッと聴けると便利なんで。
しかし、なんだね、いまどきの若者はイントロのある曲はその時間がめんどくさくて聞かないらしいから、こんな30分もかかるような音楽なんか触ろうともしないんぢゃないかと想像するんだが、どうなんだろう。
ライナーノーツによれば、交響曲第40番ト短調K.550は、作曲完成が1788年7月25日、交響曲第41番ハ長調K.551「ジュピター」は作曲完成が1788年8月10日、初演はいずれも不明だという。
40番つくりあげてから順をおって41番にとりかかったのかはしらないが、ほんとに半月でつくったんだとしたら、すごいね、そりゃ。
ちなみに41番がモーツァルトの最後の交響曲だそうで、そんなことは知らなかった(たぶん、このあとも憶えない)。
んー、それにしても250年経ってまだ聴いて気持ちいいものあるってのは不思議だ。
むかしむかし、『EV.Cafe』読んだなかに、坂本龍一が、
>百年単位では変わらないね、たぶん。で、三百年ぐらいすると変わっちゃうというのがある。つまりモーツァルトぐらいまでだとまだ何となく分かるのね、誤解かもしれないけど。でも、それ以前になると、人がなぜこの音の動きに感応していたのか分からない。途切れてる感じがする。音楽の場合って、三百年ぐらいの周期なのかもしれないね。(略)
>(略)逆に言うとね、今、自分がやってることを考えて、これはどのくらいもつんだろうと思うわけ。僕が今、ポンとコードを弾いて気持いいと思うんだけど、このコードの積み重ねがなぜ気持いいのか分からなくなるという時間的な未来がどこかにあるはずだっていつも思うわけ。(『EV.Cafe』文庫版p.24-25)
って語ってたのを、モーツァルトを聴くとよく思い出したりするわけで。
それはそうと、なんで私がこの曲のCDもってるのかは、自分でもよくわかんないんだけど、もしかしたら『沈黙の艦隊』からかもしれない。
『沈黙の艦隊』の第1巻で、原子力潜水艦シーバットの艦内で海江田艦長が「交響曲第41番『ジュピター』自分は大好きなんです」と言って、ヘッドホンしてテープを聴き出すんだが、アメリカ海軍原子力潜水艦3隻と対峙したときに、相手にも聞こえるようにフルボリュームでその音楽を響かせる。
(いま見てみたら、相手のアメリカ潜のソナーが「どうやらNYフィルのモーツァルト41番です」なんて言ってる。)
で、それってどんな曲だっけ、って思ったついでに買ってみたんぢゃないかと、そんな気がする。
それでも聴いてみれば、あー、この曲かー、どっかで聴いたことあるなー、って思っちゃうんだから、モーツァルトって、たいしたものだ。