練習をする。これはどこも一緒だと思います。その中身は別として部活動として時間を使うのであれば練習はします。基本的に練習をしないのであれば部活動とは言い難い。
部活の活性化についての話しになりました。部活動によっては集まって身体を動かすだけで終わってしまうような部もあります。集団で集まって何かをするというだけです。人間の欲求には「所属欲求」というものがあります。集団に属しているという事で満足してしまうのです。個ではなく集団になるということで自分自身の欲求を満たすのです。1人ではなく皆と一緒にいることで安心感を得る。これは部活動とは全く違うと思います。
また、練習に参加するメンバーが決まっていない、自分達でやりたいときにやるような形態で実施している学校の部活があるようです。それは本当に意味があるのでしょうか?学校教育の一環としての部活動でなければ学校施設を使って何かをする必要があるかどうかは分かりません。それなら近所の公園で集まって適当にやるのと変わりはありません。
私はどんな部活動であれ、一生懸命に取り組むことで得るものがあると考えています。運動部であれ文化部であれ、自分の限界を越えるくらいの努力をして取り組むのであれば同様に意味がある。それなりの努力で全国大会に行く、県で何番に入る、1つ勝つというのでは何も残らないのではないかと。私の価値観を他者に押し付けるつもりはありませんが、「それなりで良い」というのであればやってもやらなくても同じだと思います。高校時代のエネルギー溢れる時期にしか出来ないことがある。1つの事に対して全力で取り組むことの素晴らしさを感じることが出来るのはこの時期しかないのです。どこか冷めた目で物事を見るような高校生にはなってもらいたくない。言い訳をして逃げ道を作るような高校生であって欲しくないと思います。
そのためには「当たり前の事を当たり前にする」という考え方と姿勢を身に付ける必要があります。他の高校生がルールを守らない、平気で違反をする、だから自分も守らなくて良いという考え方をする高校生がいます。間違っていることに対して自分を正当化するというのはどうかと思いますが、それをどれだけ話しても分からない人間もいます。ここを改善していくために部活動の指導があるのではないかと思っています。「適当で良い」というのを許してはいけない。
そのためには指導する側も本気にならなければいけないと思っています。試合の前だけ、試合の時だけ練習に出て「何をやっているんだ」と言った所で人は付いてきません。文句だけ言う指導者であれば教育という視点から見ても意味はないと思います。一緒に苦労してきたからこそ喜びも悔しさも共有できる。結局は「心」のつながりがない限りは教育としての効果は果たせないのではないかと思います。今の仕事を「給料をもらうため」だと捉えると本当に無意味な仕事だと思います。こちらから伝えようと思うことがなければ意味がないのです。楽をしようと思えばいくらでも楽を出来る可能性がありますから。
少し話が逸れている感じがありますが、「部活動を一生懸命やらない」というのはリードする指導者の責任もあるのではないかと考えています。高校生は「一生懸命になる」とえ経験が明らかに不足しています。ゆとり教育を批判しても全く無意味ですが、「嫌なことはやらなくていい」というような風潮がここ最近強くあります。そこまでしてやらなくても良いじゃないかと本人も保護者も口にするような世の中です。そんな流れの中でわざわざ部活に入って死ぬ気でやろうなんていうのはバカらしい、格好悪いという感じがあるのは確かです。そこを打破するのは指導者のリーダーシップだと思います。方向性を決めて導いていく、育てていくのが指導者の役割、責任だと。
それなりに指導して文句だけを言う指導者にはなりたくないですし、誰のためにもなりません。「選手がやらない」のではなく「やらせようとしない」ことに問題があり、「変わらせようと働きかけない」「変わる必要性を教えない」から何も変わらないのです。
部活動は指導者にとって金銭的なメリットはありません。だから一生懸命に教えても自分自身に返ってくるものがないと感じる人も多いのかもしれません。しかし、生徒とのつながり、関わりが生まれるのは教科書を離れた所です。勉強だけを教えればいいというのであれば塾の講師にでもなればいいのです。それ以外の本当に大切な部分が教えられる、伝えられる場面を大切にしないといけないと思います。
一生懸命になれない選手を見ているとかわいそうだなと思います。中途半端に練習をして、嫌々走ることに意味はありません。どうせやるなら自分が限界だと思っている部分を越えるくらいの努力をしてみることが大切なのです。そういう環境を与えてやる、作り出してやることが本当の「成長」を生み出す。そのためには指導する側が労力を惜しんだらいけない。そういう仕事ですから。
テレビドラマみたいに全てが上手くいくことはありません。しかし、それでも我々が努力を惜しんだら何も変わらない。どんな生徒を育てたいかをしっかりと考えていかなければいけないのです。それが責任です。
幸い私と気の合う人は一生懸命な人が多い。きれい事ではなく真剣に向き合うことができる人と一緒に何かをできるというのは大きいですね。話がかなり大きくなっていますが、そう感じました。そこまでの話しはしていませんが一緒に話していて同じだとモノを感じました。自分の目指すモノに向けてしっかりと努力していきたいですね。
部活の活性化についての話しになりました。部活動によっては集まって身体を動かすだけで終わってしまうような部もあります。集団で集まって何かをするというだけです。人間の欲求には「所属欲求」というものがあります。集団に属しているという事で満足してしまうのです。個ではなく集団になるということで自分自身の欲求を満たすのです。1人ではなく皆と一緒にいることで安心感を得る。これは部活動とは全く違うと思います。
また、練習に参加するメンバーが決まっていない、自分達でやりたいときにやるような形態で実施している学校の部活があるようです。それは本当に意味があるのでしょうか?学校教育の一環としての部活動でなければ学校施設を使って何かをする必要があるかどうかは分かりません。それなら近所の公園で集まって適当にやるのと変わりはありません。
私はどんな部活動であれ、一生懸命に取り組むことで得るものがあると考えています。運動部であれ文化部であれ、自分の限界を越えるくらいの努力をして取り組むのであれば同様に意味がある。それなりの努力で全国大会に行く、県で何番に入る、1つ勝つというのでは何も残らないのではないかと。私の価値観を他者に押し付けるつもりはありませんが、「それなりで良い」というのであればやってもやらなくても同じだと思います。高校時代のエネルギー溢れる時期にしか出来ないことがある。1つの事に対して全力で取り組むことの素晴らしさを感じることが出来るのはこの時期しかないのです。どこか冷めた目で物事を見るような高校生にはなってもらいたくない。言い訳をして逃げ道を作るような高校生であって欲しくないと思います。
そのためには「当たり前の事を当たり前にする」という考え方と姿勢を身に付ける必要があります。他の高校生がルールを守らない、平気で違反をする、だから自分も守らなくて良いという考え方をする高校生がいます。間違っていることに対して自分を正当化するというのはどうかと思いますが、それをどれだけ話しても分からない人間もいます。ここを改善していくために部活動の指導があるのではないかと思っています。「適当で良い」というのを許してはいけない。
そのためには指導する側も本気にならなければいけないと思っています。試合の前だけ、試合の時だけ練習に出て「何をやっているんだ」と言った所で人は付いてきません。文句だけ言う指導者であれば教育という視点から見ても意味はないと思います。一緒に苦労してきたからこそ喜びも悔しさも共有できる。結局は「心」のつながりがない限りは教育としての効果は果たせないのではないかと思います。今の仕事を「給料をもらうため」だと捉えると本当に無意味な仕事だと思います。こちらから伝えようと思うことがなければ意味がないのです。楽をしようと思えばいくらでも楽を出来る可能性がありますから。
少し話が逸れている感じがありますが、「部活動を一生懸命やらない」というのはリードする指導者の責任もあるのではないかと考えています。高校生は「一生懸命になる」とえ経験が明らかに不足しています。ゆとり教育を批判しても全く無意味ですが、「嫌なことはやらなくていい」というような風潮がここ最近強くあります。そこまでしてやらなくても良いじゃないかと本人も保護者も口にするような世の中です。そんな流れの中でわざわざ部活に入って死ぬ気でやろうなんていうのはバカらしい、格好悪いという感じがあるのは確かです。そこを打破するのは指導者のリーダーシップだと思います。方向性を決めて導いていく、育てていくのが指導者の役割、責任だと。
それなりに指導して文句だけを言う指導者にはなりたくないですし、誰のためにもなりません。「選手がやらない」のではなく「やらせようとしない」ことに問題があり、「変わらせようと働きかけない」「変わる必要性を教えない」から何も変わらないのです。
部活動は指導者にとって金銭的なメリットはありません。だから一生懸命に教えても自分自身に返ってくるものがないと感じる人も多いのかもしれません。しかし、生徒とのつながり、関わりが生まれるのは教科書を離れた所です。勉強だけを教えればいいというのであれば塾の講師にでもなればいいのです。それ以外の本当に大切な部分が教えられる、伝えられる場面を大切にしないといけないと思います。
一生懸命になれない選手を見ているとかわいそうだなと思います。中途半端に練習をして、嫌々走ることに意味はありません。どうせやるなら自分が限界だと思っている部分を越えるくらいの努力をしてみることが大切なのです。そういう環境を与えてやる、作り出してやることが本当の「成長」を生み出す。そのためには指導する側が労力を惜しんだらいけない。そういう仕事ですから。
テレビドラマみたいに全てが上手くいくことはありません。しかし、それでも我々が努力を惜しんだら何も変わらない。どんな生徒を育てたいかをしっかりと考えていかなければいけないのです。それが責任です。
幸い私と気の合う人は一生懸命な人が多い。きれい事ではなく真剣に向き合うことができる人と一緒に何かをできるというのは大きいですね。話がかなり大きくなっていますが、そう感じました。そこまでの話しはしていませんが一緒に話していて同じだとモノを感じました。自分の目指すモノに向けてしっかりと努力していきたいですね。