色々なことを書いています。それに対する評価もあれば、批判もあるでしょう。何度か書いていますが「雉も鳴かずば撃たれまい撃たれまい」です。自ら撃たれる要因を作っている感覚はあります。何らかのアクションを起こせば何らかのリアクションがある。当然の話です。そこを度外視きてやっていくのは不可能。それなりに覚悟の上でやっていかないと思います。
前の記事にも書きましたがチーム作りをしていく中でやはり理想と現実のギャップが生じます。徒然草の中に「仁和寺にある法師」という作品があります。多分題目は違う気がしますが。
ある法師が著名な寺院を参拝する。そこでお参りをするのだが他の参拝者は山の上の方に上がっていく。この人たちは山の上に上がって景色でも眺めるのだろう、自分は参拝に来たのだから上がる必要はないんだ。「自分はこの人達とは違ってやるべきことをやっている」と思い帰郷して他の人に自慢する。すると実はその寺院の本殿が山の上にあることを他の人から教えられる。自分はきちんとやっているんだという思い込みがあったが実は全く違っていた。
このことに対して少しのことにも、先達はあらまほしき事なりと言っている。これはほんの少しの事でもそれを知っている先輩や先生がいて教えてくれる、手本を示してくれる人の存在の必要性を示している。考えてみればこれほど当たり前の事はない。先達の存在によりその後ろについていく人達は無駄な事をしなくて済む。諸先輩方の話に耳を傾ける事で自分が経験した事のない内容であっても身につける事ができる。
この事は徒然草に記載されているだけの話か?ここから学ぶ事はたくさんあると思う。チーム作りにおいても「ある程度の競技意識」のチームであればあとは早い。先達の様子を見ていきそれを真似するだけである程度の水準まで伸びるからです。「競技志向」だけでやるつもりはありません。「物事に取り組む姿勢」から身に付けてもらいたいと考えています。そのためには「自分が何をすればよいか」を学ぶ必要がある。そしてそれを学ぼうとする姿勢が必要となる。孔子の言葉に「憤(ふん)せずんば啓(けい)せず」というものがある。自分で必要と思いそれを示さなければ結局何も得ることはないのです。孔子の言葉は学問に対する取り組みの姿勢を示している。しかし、全てのことにおいてそれはあてはまるものだと思う。教えてもらうことを待っていたら誰も教えてくれない。仁和寺にある法師と同じではないか。
チーム作りをするうえで「先達」がいてくれるのはありがたい。がそれが不在であればやはり自らが「先達」になる必要がある。これまでやってきたという「枠」だけで物事を考えるのではなく、求められるモノを理解しそれが本当に自分にとってプラスになるのだという意識を持たなければ何も変化は生まれない。受け身の姿勢のままで待っていたら誰かが何かしてくれるという感覚から抜け出さなければいけないと思う。「これまで通り」を抜け出すのには勇気がいる。異なる環境の中で何をするかだから。
私自身、これまでと異なる環境の中で活動をしている。そこに戸惑うことは多い。それでも今の環境下で自分に何ができるかを考える。今までの自分の取り組みが正しいかどうかは私自身も考えないといけない。だから「先達」に相談をしながらやっていく。いつも自分が正しいとは思わない。自分自身の「枠」越えていけるように自分自身が変わらないといけない。選手に変われと求めるのであれば私自身も変わっていかなければいけない。間違いなく10年前とは指導スタイルが異なる。これだけは間違いない事実。もちろん昨年とも違う。今のスタイルが正しいかどうかは分からないが。
考えていることを少し記しておく。もう少し書いておきたい。
前の記事にも書きましたがチーム作りをしていく中でやはり理想と現実のギャップが生じます。徒然草の中に「仁和寺にある法師」という作品があります。多分題目は違う気がしますが。
ある法師が著名な寺院を参拝する。そこでお参りをするのだが他の参拝者は山の上の方に上がっていく。この人たちは山の上に上がって景色でも眺めるのだろう、自分は参拝に来たのだから上がる必要はないんだ。「自分はこの人達とは違ってやるべきことをやっている」と思い帰郷して他の人に自慢する。すると実はその寺院の本殿が山の上にあることを他の人から教えられる。自分はきちんとやっているんだという思い込みがあったが実は全く違っていた。
このことに対して少しのことにも、先達はあらまほしき事なりと言っている。これはほんの少しの事でもそれを知っている先輩や先生がいて教えてくれる、手本を示してくれる人の存在の必要性を示している。考えてみればこれほど当たり前の事はない。先達の存在によりその後ろについていく人達は無駄な事をしなくて済む。諸先輩方の話に耳を傾ける事で自分が経験した事のない内容であっても身につける事ができる。
この事は徒然草に記載されているだけの話か?ここから学ぶ事はたくさんあると思う。チーム作りにおいても「ある程度の競技意識」のチームであればあとは早い。先達の様子を見ていきそれを真似するだけである程度の水準まで伸びるからです。「競技志向」だけでやるつもりはありません。「物事に取り組む姿勢」から身に付けてもらいたいと考えています。そのためには「自分が何をすればよいか」を学ぶ必要がある。そしてそれを学ぼうとする姿勢が必要となる。孔子の言葉に「憤(ふん)せずんば啓(けい)せず」というものがある。自分で必要と思いそれを示さなければ結局何も得ることはないのです。孔子の言葉は学問に対する取り組みの姿勢を示している。しかし、全てのことにおいてそれはあてはまるものだと思う。教えてもらうことを待っていたら誰も教えてくれない。仁和寺にある法師と同じではないか。
チーム作りをするうえで「先達」がいてくれるのはありがたい。がそれが不在であればやはり自らが「先達」になる必要がある。これまでやってきたという「枠」だけで物事を考えるのではなく、求められるモノを理解しそれが本当に自分にとってプラスになるのだという意識を持たなければ何も変化は生まれない。受け身の姿勢のままで待っていたら誰かが何かしてくれるという感覚から抜け出さなければいけないと思う。「これまで通り」を抜け出すのには勇気がいる。異なる環境の中で何をするかだから。
私自身、これまでと異なる環境の中で活動をしている。そこに戸惑うことは多い。それでも今の環境下で自分に何ができるかを考える。今までの自分の取り組みが正しいかどうかは私自身も考えないといけない。だから「先達」に相談をしながらやっていく。いつも自分が正しいとは思わない。自分自身の「枠」越えていけるように自分自身が変わらないといけない。選手に変われと求めるのであれば私自身も変わっていかなければいけない。間違いなく10年前とは指導スタイルが異なる。これだけは間違いない事実。もちろん昨年とも違う。今のスタイルが正しいかどうかは分からないが。
考えていることを少し記しておく。もう少し書いておきたい。