kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

考える日々4

2019-01-20 | 陸上競技
ひたすら書いておきます。

ショートスプリントに対してアプローチを始めた年。mihoがインターハイで戦いたいという希望を持っていました。それに対してこちらも色々と考える。中間以降の伸びは抜群だったので前半部分の練習を増やしていきたい。加速段階の動きというのはなかなか難しいと思っています。中間の動きはある程度やっています。が、スタートから加速段階の動きというのは難しい。ここを勉強しながら対応したいと。

上手くスピードに乗せるために少しピッチを意識した練習にしました。マーク走や中間マークを徹底。身体を起こすのを我慢する。その手の練習を増やしていきました。こちらが見ていた時の感覚はかなり良くなっているなと感じていました。しっかりとピッチが上がって起きるのも我慢できる。手応えを感じていました。

が、2月中旬くらいに「マークが遠いので狭くしても良いか?」というのをmihoから提案がありました。ピッチを保つためにはどうするかを考えてやっていたので前半マークの幅を少しずつ狭くする事にしました。それによりピッチが保てるようになる。ここが大きな失敗の原因でした。

3月になってある程度スピードが出せるようになる。前半で遅れる事がなくなっていました。が、実際にレースに出てみると中盤以降で身体が動かなくなる。スタート云々ではなく本来の武器を失ってしまっていました。1番の課題は「重心移動」が小さくなっていること。ピッチを保とうとするあまり重心移動を疎かにしていた。移動を小さくしてピッチを保っていたのだと思います。そのことに気づく事が出来なかった。視野が狭くなり過ぎていた。本当に情けない話です。

結局、12秒5でしか走れませんでした。200mは追風参考で25秒1まで行きましたがこれはほぼ維持だけで走っただけ。本来の動きができなくなり自信も喪失。しんどかったと思います。気持ちを切らさずやってくれましたが本当に申し訳ない気持ちで一杯でした。

この時、本当に何をしているか悩みました。やりたい動きがある。その動きをしっかりとさせたいと考えていました。型にはめるような形で動きを作っていく。それが大きな失敗を生んだのだと思います。元々13秒2くらいの走り。その選手が試行錯誤しながら12秒3まで力をつける。これだけで大きな事だと思います。この時はドリル的な動きをかなり入れていました。パワータイプの走りだったので接地が強い。スイッチングの動きが遅れ気味になるのでその部分をどうするか。その中で動きに関してかなり考えていました。

加速段階に関して一番考えた時期だと思います。これまでは14秒台の選手をどう伸ばしていくかという感じだったのでそこまで細かくやっていなくても記録は出ていました。スピードレベルを維持する練習がメイン。前も書きましたが「速い選手は速い」という思い込みがありました。しかし、実際はそうではない。きちんとやりさえすれば走れるようになる。感覚だけで走るのではなくきちんと動きを作っていくことで結果は出る。

mihoの12秒36に関しては彼女の潜在能力だと思います。レースの組み立てや流れかきちんとできて出たタイムではない。2年間必死にmihoと競技に向き合ってきたお陰でかなりスプリントについて考えることができたと思います。ピッチだ、ストライドだと枝葉の話をしている場合ではない。もっと根本的な部分を見直さなければいえない。そこに関して強く感じる事が出来ました。

mihoは大学でも競技を続けてくれました。思うように走れなくなっていた時期もありましたがある時「練習を高校時代の練習に戻そうと思う」という連絡がありました。それがきっかけになったかどうかわかりませんが12秒03まで記録を伸ばしてくれました。高校時代の事を考えると恨まれているのではないかという気持ちはあります。

マイルで中国大会7位になってから二度とこんな想いをさせたくないと強く思いました。インターハイを決めたrinaが「私だけがインターハイに行って良いのか」と苦悩していた。そう思って勉強したつもりでしたがまだまだ足りないものがあらというのを突きつけられた2年間でした。

完全にわたしの思い出話になっています。しかし、この中にスプリントに対する考え方の変遷が詰まっていると思います。もうしばらくこんな感じの内容になると思います。振り返り。
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考える日々3

2019-01-20 | 陸上競技
何を書いているのかよく分からなくなっていますが。それでも頭の整理のために記しておきたいと思います。

練習に対する考え方の変遷。それぞれの練習の良い部分悪い部分があるのだと思います。そこに正解があるのかどうか。結果が出たらそれは良い練習となるのか。10人いてたまたまハマった1人がいるとしても残りの9人が全く走れなかったらそれは良い練習なのか。ここは考えものだと思います。まー外部からすれば「良い練習をしているから強い」となるのかもしれないですが。周りの評価です。それはそれである意味事実なのだと思います。競技をやりたいと思う中学生の選択情報の大きな理由はそこにある。私のような練習では認知されない可能性はありますし。

話が逸れましたが。前の記事の続きを書いておきたいと思います。興味ないかもしれませんが。

150mを何本も走るという練習スタイル。これが3年くらい続いたでしょうか。結果的に400m系の選手は強くなりました。もちろん補強もかなりやっていました。女子のベンチプレスで45キロ以上を上げるような状態。投擲選手なのか?という話ですね。その時はとにかく選手が真剣でした。こちらが投げかけるものに対して全力でやる。プラスアルファでやる。そんな状態でしたから。技術的なアプローチはまだまだだったと思います。それは私自身の知識や考え方が甘かったという部分です。今の技術的な考え方や技術練習の方法であればもっと行っていたのではないかと思います。

この頃はドリル的な動きをかなりやっていました。練習の流れというのがそこまでない。膝締めの動きを徹底する感覚。重心移動の部分もやっていましたが引き出しが少なかったので同じメニューの繰り返しになる。そのやり方で感覚が作れる選手もいれば作れない選手もいる。走る量である程度補っていた感じがあります。かなりやっていました。

初めて400mでインターハイに進んだ時の3年生がかなり意欲的だった。そのお陰で練習が保てていたと思います。が、その下の学年から厳しい状態でした。練習をすると言ってもあからさまに手を抜く。上級生を平気で裏切る。情けなくて涙が出るレベルでした。本気になれない。blogには書けない内容がかなりあります。本気でない選手に対して「インターハイを目指そう」と投げかけ続けるというのは私自身苦痛でした。モチベーションが低下しつつありました。

更にマイルでインターハイを狙うというイメージでいたのですが400mを走れる選手が足りない。上述のような状況でしたから選手自身が競技に対してモチベーションが低い中で激しい練習をさせるのは不可能。当時私が始動し始めて初めて12秒台で走った選手が1年生でした。1年生の秋の県新人では100と200で2冠。この辺りから少しずつショートスプリント中心に移行していったのかなと。

そこまでは400m、400mHを中心にしていました。400mHは2年連続で3人が中国大会に進むという感じでした。当時の私は「100mでは勝負できない」という考え方がありました。ショートスプリントは元々速い選手には勝てない。ロングスプリントであれば努力種目なので練習をきちんとすれば逆転の可能性がある。ショートスプリントに目を向けるのを避けていたのかもしれません。自分の指導力の低さから目を背けていた。練習量に頼った指導をしていたのだと思います。

それでもそれなりの結果でした。まー本当にそれなりでしかなかったですが。

そんなタイミングで次年度インターハイを狙う。そうであれば100mと200mで狙う方向で考えるしかない。一番可能性が高いところにエネルギーを注ぐ。それが良いのか悪いのかは分かりません。不平等だと言われるのかもしれませんが。そこを中心にチーム作りをするという流れにしました。

そうなると練習形態も少しずつ変わっていきます。練習自体の大きな流れは変えませんが走る距離や本数は変えました。150mの50mウォーク繋ぎから歩いてスタート地点までもどる形に。一般的な練習形態かもしれない。どちらかというとパワーで走る選手だったのでしっかりと地面に力を加えるという感じがありました。

この辺りからチューブ走を入れたりマーク走を入れたりし始めました。それまでもやっていたのですがこの辺りから細かい部分まで意識するようになりました。まだまだかなり甘い部分があったと思います。私自身、この時にmihoと出会えたことは大きなきっかけでした。ショートスプリントに対する考え方の基礎はここでできたのではないかと思います。実際に指導を始めて7年目の出来事です。

指導者としてどうなのか。経験則から抜け出して数年。元々めちゃくちゃ強い選手が集まるというのはほぼ無理だと思っていました。普通の選手をどう育てるか。mihoも中学時代は13秒2位でした。それでも私が始動してきた選手の中でいえば断トツの力を。14秒台の選手を県で戦うことを目指してやっていくのとはすこしアプローチが変わりました。

翌年、mihoが2年生になりました。本数を追わない練習に移行していました。が、それでも県選手権でマイルで優勝。それなりにスピードを上げていくことで距離への対応も可能になる。その年は本当に色々ありました。県総体はかなり苦痛。指導云々ではなく。トラブルが多発していました。それでもmihoがインターハイに進むために何をするか。山口国体があった年なので練習会も頻繁に開催されていました。その中で多くのきっかけをつかむことができたのではないかと思います。中国大会で12秒36、25秒48で走りました。200mでは6位となりインターハイに進む。私自身成長させてもらったと思います。

インターハイに進んだのをキッカケに宮崎へ繋がりを作りここでかなり勉強させてもらいました。女子指導の雰囲気作りや基礎的な事をかなり。そしてここでリレーについて学ぶ。これまでマイル中心でやっていたのですがmihoがいる時にリレーでインターハイを狙いたいという気持ちがありました。細かい部分をしっかりとやっていかなければ戦えない。改めて感じた機会でした。

微妙に長くなったのでひとまずここまで。何が楽しいのか分かりませんが(笑)次はちょっとした挫折です。いや、かなりの挫折かもしれません。
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