kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

教育について考える今日この頃

2019-09-11 | 陸上競技

思うことを。

 

教育現場では現在かなり苦しい状況の中で活動を余儀なくされる。基本的に生徒は「お客様」になっていて「いかに満足してもらえるサービスを提供するか」という部分が問われる。本来的には「育てる」という部分を教育機関が担っていた。それが「無難に過ごす」ことを求められている感じを受ける。

 

ニュースで多く取り上げらるが「指導」をするとその一部分だけが切り取られて炎上する。前後関係はほぼ関係ない。どのような経緯で指導をしているのかは別問題。よくあるパターンが「指導」をしている本質的な問題ではなくそれ以外の部分で「これはどうなのか」と揚げ足を取られて批判される。

 

こういう状況になると教育現場は間違いなく「受け身」にならざるを得ない。クレームが入るとそれに対して「事情を説明する」というのではなく「謝罪」を求められる。だから「何かあれば保護者に頼んで抗議してもらう」というのが生まれてくる。打たれっぱなしのサンドバック状態になる。打ち返すことは不可能だから。

 

根本的な問題行動について指摘をしても「あの時、こんなことを言った」という話になってくる。指導したことの内容ではなく「枝葉」の部分の話になる。

 

かなり前のこと。10年近く前だろうか。「間食を控える」ことを話した。そのことに対して「一日練習をするのに食事もさせないのか」と抗議を受けたことがある。いや、「間食」とはポテトチップスやケーキのような「間食」の話。練習中の栄養補給をしてはいけないとは言ったことはない。その部分を説明すると「あなたがやっている練習は正しいのか?」と話が別の話になって批判された。

 

やっている練習はプロがやっているようなきちんとした練習なのか。必要ないことをやらせているのではないか。だから結果が出ていないのではないか。言われ放題だった。「結果が出ていない」と言われた。当時、県総体で総合優勝をしていたし、インターハイに出場する選手も複数いた。それでも「結果が出ていない」と言われる。本当にそこが大切な話なのか?「結果」とは何をもって判断するのか。

 

本当の意味での「教育」とは目に見えない部分が多い。行動の変化であったり考え方の変容が「教育結果」ではないか。英単語を覚える、数学の公式を覚えて問題が解けるようになる。それも「教育」かもしれないが「覚えるだけ」という部分が本当の意味での「成長」につながるのかどうか。

 

私は部活動やクラス活動で「成長」を促したい。しかし、今の教育を取り巻く環境の中では「大きなリスク」を伴うようになる。何かをやればそれに対して「批判が生まれる」危険性がある。我々が何かを言えば「暴言」と批判されるが、生徒側がひどい言い方をしてもそれは「暴言」にはならない。なんとなく許されていく。思い通りにならないときに「我慢する」ことを覚えさせなければいけないが、「我慢する」ことを求めると信じられない行動が出てきたりする。

 

サッカーの試合で「反則」があればすぐに「イエローカード」が出される。単純な反則ではなく「危険な行為」に対して出される。悪質なものに関しては「レッドカード」が出て一発退場になる。サッカーであればそれが通用する。その場から出ていってもらえば安全に試合が継続できるから。

 

教育現場ではそうはいかない。「問題行動」があったから即「レッドカード」を出して「退場」させるという話にはならない。それでは「問題行動」を問題だと認識させてそれを改善するための取り組みをする機会がない。次も同じ行動をさせないように「考え方の変容」が必要になる。一発退場にすれば現場での「負担」や「ストレス」は激減するかもしれないが、それ以外の場所で大きな問題が生まれてくる。

 

教育の充実は犯罪行為を減らすといわれる。これが本当かどうかは分からない。しかし、「家庭の教育力」が著しく低下している現状ではどこかで誰かが負担をして「ダメなものはダメ」と教えていく必要性がある。問題行動をするとその後、どのようなリスクが待っているかを手を変え品を変え教えていく必要がある。

 

前の記事にも書いたが「お膳立てしてやってもらう」というのは私の中では「教育活動」とは思えない。台本があってそれに従ってやっておけば「体裁が整う」という部分。そのプロセスの中で何かを学ぶことは少ない。無事終われば「達成感」はあるかもしれないが、本当のみでの「達成感」や「成長」とは異なる気がする。

 

陸上競技の練習も同様ではないか。練習計画を作る。そのメニューさえやっておけば結果が出る。それは単純な話。その練習をどのように取り組むかで大きく変わってくる。そこが分かるかどうか。「言われたことだけやる」というのでは対応できない部分が出てくる。自分にとってこの練習がどのような意味を持つのか。感覚的な変容がどう生まれるのか。ここを考えながらやっていかなければ「練習をするだけ」になってしまう。

 

正直、こうやって物事に取り組むと「楽しい」ということよりも「しんどい」と思うことのほうが圧倒的に多い。短絡的な結果を求めることが多くなっている現代の社会に逆行しているのかもしれないなと思う。「教育」に携わる者としてそれなりに「信念」を持ちたい。それがない「教育」は危険だと思う。

 

注意される経験が劇的に減っている。指導されても「何がいけないのか」と感じるのかもしれない。多くの場合指導されたら「自分は悪くない。向こうが悪い。」というような言葉が出てくる。それは本当に必要なことを見極められていない。でも、その部分が大きく出ているのが今なのかなと思っている。

 

まとまらない。何ができるのだろうか。打たれ続ける中で何をするのか。見えてこない部分はある。それでも「自分の役割」を考えて進みたい。自分にできることを見極めたい。

 

雑文。

コメント
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