練習について書いていない部分はありますが。何人かが微妙にこのblogのマニアックさに共感してくれています。ありがたいことです。こんなことをひたすら考えている人がどれくらいいるのか分かりません。そしてそれに関して思うことを少しだけ書いておきます。
「考える」ということについて。以前から「上手くかみ合わないな」と思うことがたくさんありました。私にとっては「普通」であっても「この人何言ってるんだろう」と思われることもたくさんある。「変わっている」と思われるのかもしれませんが私にとっては普通。競技に関して「考える」という部分が自分の中で大きな部分です。
私にとっては「考える」というのは普通の行為なのです。でもそれがなかなか分かってもらえない。図書室で「考えることはどういうことか」という新書を見つけた。「0歳から100歳までの哲学入門」というサブタイトル。「あーこれかな」と直感的に感じた。若いころからこの手の本をひたすら読んで生きてきた。高校時代はエッセイ中心だったが「さくらももこ」のエッセイは読み漁った。大学に行っても就職しても同じような傾向。「哲学」というものにかなり興味関心をもって生きている。
この新書の冒頭に哲学とは「意味が分らないもの」「面倒くさいもの」「当たり前のことをわざわざややこしく考えるひねくれ者」というイメージがあると書かれていた。ビンゴ(笑)。物事を考えるときに「なぜなんだろう」という部分からスタートする。
大学時代、「イヌ」について考えたことがある。これは正確には「言葉」について。「イヌ」というのは大体の人が聞いたら共通のイメージを持っている動物。「わん」と鳴くあの四足歩行をするペットとして買われている動物。言葉について考えていくときに「なぜイヌなのか」と真剣に考えた(笑)。一番最初にこの動物を「ペペ」と呼んだ人がいたらひょっとしたら今でも「イヌ」は「ペペ」と呼ばれていたかもしれない。正直、どうでもいい話である。
「好き」という言葉がある。これは自分の中で非常に「表現しにくい感情」だと思っている。「好き」というのは「す」と「き」の文字の羅列でしかない。この二つの文字を並べて「すき」という言葉にした時にある一定の感情を示すことになる。「好き」という文字で示すと「好意を持っている」というのが伝わる。が、その「好き」の度合いはどうやって伝えるのか。「めちゃくちゃ好き」だという言葉になるのか。「好き」ではなく「愛している」という言葉が適切なのか。「愛している」という言葉でも伝わらない感情というのが存在すると思う。それを伝えるときにどうやって伝えるのか。
もうどうでもいい話(笑)。それでもそんなことを真剣に考えていた。「変な人」と思われる可能性はある。別にいたって普通だと思っている。他の人に合わせて話をすることもできる。自分が考えていることを「一方的に押し付ける」という気持ちはさらさらない。しかし、例に挙げた「言葉」について「深く考える」という行為を真剣に話をするというのはほぼない(笑)。聞いても面白くないから。新書にも哲学を勉強している人は「この人大丈夫か?」と周りから思われる時代があったと書いてあった。まさに(笑)。
大学4年生の時に全日本インカレに出場した。その時「かなり調子がいい」と思っていたのに実際に走ってみると全くダメ。いわゆる「あがり」という状況だったのかもしれない。初めて出場する全国大会。自分はできると思っていたが周りの空気に飲まれてがちがちになっていたのかも。これは分からない。4年生になったときから「大学院に進みたい」と思っていた。一番の理由は「競技を続けたい」というところから。しかし、この辺りの経験があって「言葉で表現できない感情」「言葉で表現できない感覚」というものに興味を持った。これをどうやって「表現するのか」という部分。面倒くさい(笑)。
目に見えない感情や感覚を言葉にする。そのためにはひたすら考える必要がある。共通する感覚を生み出すためにもここは重要になるのかなと思っている。だからこそ大学院で運動心理学を専攻した。今そのことが生かされているかどうかはよくわからないが(笑)。考え方の基礎は「哲学」にあるのかなと感じた。一時期は哲学に関する本を読みまくった。だからこんなに「面倒な人間」になっているのかもしれない。
多分、これからも時々この手の記事を書く気がします。だって面倒くさい人だから(笑)。興味関心を持ってもらえるかどうかは別にして「書きたいことを書く」ようにします。もちろん、書けないこともたくさんありますが・・・。なんとなくこういう部分が自分のベースなのかなと。これからも考える日々を送りたいと思います。