kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

rkn高校での修行8

2019-11-22 | 陸上競技

どこまで書くのか・・・。読者の想いはほぼ無視して自分が感じたことを書き続けています。どれだけの人が興味を持っているのかは分かりません。そして申し訳ないのですが「私には関係ない」と思っています。元々そういうスタンスで書いているblogですから「読者受けする」必要性はないのです。アフィリエイトで閲覧者が増えれば収入があるというのであれば必死に「受け入れられる」ことを書きますが(笑)。残念ながらやっていません。

 

「正しいものは正しい」という部分。この辺りの話も聞きました。大学生や社会人になって走れなくなってくる選手が出てくる。これは「仕方ないな」と感じていました。練習が云々ではなく「環境への慣れ」もあるでしょうし。大学に進んで故障をする部分が出てくる。この辺りはどうなのかなと。

 

高校時代、「基本」をしっかりとやっている。それが大学になるとその部分が不足してくる。腕振り一つにしても「丁寧に基本を確認する」ということがなくなります。大学の練習の中で「丁寧にやる」という時間が確保できないからかもしれません。大学を否定するというわけではなく「一般的な意見」として書いています。使うべき部分がきちんと使えるようにしていく。その時間が作れないため「基本が疎かになる」という部分。本来であれば各自がそのことを理解して取り入れていけばいいのですが上手くはいきません。

 

sbt先生が言われる「正しいものは正しい」という話。それは「どのカテゴリーであってもやるべき根本は同じ」ということだと思います。「腕振り」はきちんと真っすぐ振りましょうというのは誰もが同じ。真っすぐ振る意識があっても結果的に触れない可能性はある。だとしても振れないから「横振りでいい」というのは違う。接地や関節の固定などはどの年代であっても変わってはいけない部分なのかなと。

 

自分たちでやるようになるとどうしても練習が偏ります。「良い」といわれる練習がどんどん広まっていき、誰もがやるようになる。革新的な動きであればそれがもてはやされる。rknの練習自体はきっと10年以上前から変わっていないのだと思います。「シンプル」になっているからこそそこに行きつける。その中には「絶対に外せない練習」が必要になってくる。

 

1m間隔でミニハードルを50台並べる練習。これはかなり難しいと思います。kry選手が10秒01を出した時にマスコミが飛びついて大々的に放送していました。最後まで動きを維持してやっていくというのは簡単ではなりません。しかし、この「1m間隔50台」は見ていて「すごいな」と感じる。だから「1m間隔50台」をやろうという指導者も出てくるのだと思います。

 

が、これは「基本」ではない。その前段階があってその中でやっている練習だと思います。「1m間隔50台」が出来たことで100mが劇的に速くなるというものではない。目に見える部分とは異なるというのを認識しなければいけないと思っています。一時期流行った「なんば」も同様かと。それをやれば速く走れると考える。古武術の考え方から導入されていると思いますが、これも「基本」ではない。見間違えないようにしたいですね。

 

rknでやっている。これだけで万人が興味を持つのではないかと思います。「何をやっているのか」と。「どんな練習をしているのか」と。タイヤ押しやソリ引きをやっていました。これはある意味「一般的」な練習です。ハードルドリルもメディ投げも。サーキットもウエイトも「特別な練習」ではないと思います。これ自体が「基本」というものではない。「強いチームがやっているから自分のところも導入する」という考え方では「本質的なもの」を見失ってしまうのではないかと思います。そこに「基本」や「真理」はない。

 

正直、rknの練習をうちの学校でやろうとは思いません。というか「できない」のです。色々な条件が異なるので「強いチームがやっている」からそのまま自分の学校でやればいいという話ではないと思っています。これはkbt先生も同様でした。今回の訪問のテーマは「何が大切か」を見てきたい、肌で感じたいというものでした。衝撃的でしたが(笑)。ある一定水準以上の競技レベルと競技に対する意識、競技に対する「考え方」が揃わなければできないと思っています。

 

うちの選手がそのままの練習をしたら全員速くなるのかというとそれは絶対にないと思います。もも上げ一つをとっても今の選手にはできない部分がある。そのもも上げができるようになったら速くなるのかというのも違うのかなと。そこには「重視すべき考え方」が存在する。そこを外して考えても競技力の向上にはつながらないのです。

 

だから今回はひたすら「観る」「聴く」という姿勢でいました。「狙い」をはっきりとさせて自分ならどうするか。自分が預かっている選手に対してどのように還元するか。ここも考えさせられました。「フリー練習」の部分に関しても今のうちの状況には合わないのかなと思います。伝統がないという部分と「競技と向き合えているかどうか」という部分がります。そうであれば「指導スタイル」を大きく変えていく必要性はないのかなと。

 

「正しいものは正しい」のです。それがどの段階においても正しいものでなければいけない。「速く走るため」に何が必要なのか。そこを考えていく必要があるなと思っています。「取り組みの姿勢」は「速く走るため」に必要ないという考え方の指導者もいると思います。私はそうは思いません。「考え方」がしっかりとしていなければ何をやっても変化はないからです。

 

技術を身に付けようと思っても「別にそこまでしなくてもいい」と思っている選手にとっては「やればいい」という段階で終わってしまいます。「必死に何かを習得しようとする姿勢」は「1点でも多く点を取りたい」という考査に対する姿勢と通じるものがあります。「少しくらいいだろう」という考え方は「今日は面倒だから日誌は明日書けばいいや」という部分につながる。結局は「練習場面」だけではない。

 

rknの選手、ミニハードルを並べるのが尋常ではなく早い。「メジャーに線を引いているんですか?」と聞くと「何もしてない」とのことでした。練習の流れを理解したり「次に置く場所はどこだ」というのを分かっている。効率よく練習を進めていくために「次を見越す」ことができます。それは「先輩の行動を見ながら学ぶ」のかもしれません。または自分で判断して行動することなのかもしれません。

 

ある一定水準に達するまでは「指導」が必要だと思っています。その部分ももう一度確認できました。そして「例外は存在しない」という部分。高校記録を出した選手であっても「同じこと」を「正確にやる」という部分。特別扱いすることはない。「自分はこっちがいいから」という勝手な行動は許されない。ここも「学ぶべきこと」でした。

 

まとまりません。多くのことを学んだのは確かです。そしてこれからの方向性と「徹底するべき部分」を確認できた。「練習にはエビデンスが必要」ということ。何度も言い続けていますが「意味のない練習はしない」という部分です。もちろん何が走りにつながるかという絶対的なものはないと思っています。それでも「走れば強くなる」「補強をすれば強くなる」という幻想からは抜け出さなければいけません。

 

貴重な経験でした。また書けたら書こうと思います。今回のチャンスを下さったkd先生、多忙の中訳の分からない相手をして下さったsbt先生、一緒に異なる視点から練習を見てくださったkbt先生、分からないことに対して補足説明をして下さったmtm先生には心から感謝いたします。今回の機会を選手に還元していけたらと思います。勉強になりました。感謝。

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rkn高校での修行7

2019-11-22 | 陸上競技
続きを。

今更ですがここまでひたすら書いてきて「練習を見た視点は正しかったのか?」という不安に(笑)。検討外れのことをひたすら書いている可能性もあります。誰も突っ込みを入れてくれないですし。不安に襲われてmtm先生に相談。大丈夫そうなのでもう少し書いておきたいと思います。

印象的だったことが「スピードを高める練習」と「回復力を高める練習」について。これを別物として捉えている。言葉で書くだけでは分かりにくいと思います。やはり練習は「速く走るため」に行わなければいけない。当然の話です。が、「足が速い」だけでは戦えない。

京都や大阪、兵庫では支部総体を勝ち上がるのが熾烈です。支部総体でも地方の県総体より高い。そこから怒涛のように府大会、近畿総体が実施される。こうなると途中で「高い負荷をかける」練習がなくなっていく部分があります。数週間でハイレベルなレースを続けていく。

「回復力を高める練習」という部分。ここはおぼろげな感覚でした。mtm先生に補足説明をお願いしました。スーッと入ってくる。以前大阪に行った時に「マルチスプリンター」の話を聞いていました。そこに繋がる話でした。

rknの選手、複数種目に出場します。トラック種目だけではなくフィールドも兼ねる。それにリレーも。さらに余裕を持ってラウンドを進むというのは厳しくなります。府大会や近畿大会で余力を残して通過するというのは不可能。そうなると「高いスピードを持つ選手」だけでは勝てなくなる。

これは色々な場面で私も話す内容ですが。高校で戦っていくためには「速いだけ」では戦えない。中学校の標準記録を突破するスタイルとは異なります。ラウンドを進めていく中で安定して走らなければいけない。平均値を上げるという言い方をしていますが、本数に対する耐性もある程度は必要になります。我々が考えるよりも近畿ではその部分は熾烈になります。余力を残せる選手はほとんどいないのではないかなと。

そうなると一本一本の間に「回復する能力」が必要になります。リカバリー能力を高める感覚が求められる。それもシーズンが始まるとレースが連続するので、調整練習になる。冬の間にしっかりと「回復力を高める練習」をする。話を聞くとかなりハードな練習をする時期もあるようです。

明確に「速く走るための練習」と「回復力を高める練習」を分けて考えている。この部分は実はすごく大切な話なのではないかなと感じました。色々な学校の練習を見ていると「走り込み」が多い部分があります。これも「仕事率」と重なる部分かもしれません。練習のメインが「仕事量」を求めて行う。つまり「回復力を高める練習」がメインになっているのではないかということ。ここからは完全に私見なので正解かどうか分かりませんが。

練習に関して「強豪校の練習は正しい」という思い込みがあります。これは今か始まったことではなく昔からだと。強豪校がやっている練習に関しては絶対的なものがあるという部分からスタートして考える。そうなると技術的な部分や本当の狙いというのを探るよりも「目に見える練習」を真似する方が簡単です。それが「走り込み」になる「回復力を高める練習」なのではないか。

sri先生と「走れ走れ信仰」について話したことがあります。これは「練習量」を増やして走る中で「感覚を掴む」というもの。以前から「走り込んで疲れたら余計な力を使わないのでリラックスして走れる」と言われることがあります。一理あるのかもしれませんが。疲労困憊で走っていく練習の中で「良い動き」が身につくのか。下手をすると最後は「ジョグ」レベルのスピードに落ちるので「やった感」があるだけで効果はないのではないか。

例えば「200m5本」を5分おきに走る大会があるならその形の練習は意味があると思います。疲れていてもそこから走るレースですからスピードレベルが落ちても走り続ける能力が求められる。しかし、実際のレースは1本勝負です。長い距離を何本も走る練習にどのような意味づけをするか。

よくよく考えてみると「回復力を高める練習」がメインの練習というチームは多いと思います。技術的な考え方を除外して「走る中で感覚を掴む」という表現で指導する。これはスタートに関しても同じだと思います。スタートが悪いので「何本もスタート練習をする」というのでは効率が悪い。技術的な改善をすることなく「やっていたら直る」という考え方ではどれだけやっても効率が悪い。ここが「仕事率」の考え方なんだと思います。

この辺りの話を聞いて自分の中にこれまでモヤモヤしていた部分がスーッと晴れた気がしました。逆に今のうちの練習には「回復力を高める練習」というのが不足しているのではないかなと感じる部分も。いつのまにか「速く走るための練習」と「回復力を高める練習」が混在していたのではないか。これをある程度線引きしてやっていくことでまた異なる世界が見えてくるのではないか。

この話、なかなか理解してもらえない気はします。普段やっている練習がきちんと整理できていないと見えてこないからです。狭い世界で「自分たちは練習をしている」という考え方でやっていたら絶対に見えない。だからこそ「考える」という力が必要になる。「理解する」という力が必要になる。与えられたことを何も考えずに実施しているだけで勝負できるようになる程甘くはないからです。

何となく走っている選手を対象に指導を進めていくのと「何が何でも速くなりたい」と思って指導していくのでは全く違ってきます。その部分も私が分かっておかなければいけない。真似をすることで変わっていく部分も確かにあると思います。しかし、本質的なものを理解して次に進むのか、表面的なものをそのまま真似る中で見えてくるものは違うと思います。

まとまりません。しかし、この記事はすごく意味があると思っています。私の中ではかなり大きい。
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