あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

水無月の歌

2016-06-09 10:39:55 | Weblog


Voice Of Yoshimasu~吉増剛造の語りによる「我が詩的自伝」を読んで


ある晴れた日に第382回&これでも詩かよ第177番&照る日曇る日第870回




 これは詩人吉増剛造が物語る、いわゆるひとつの波乱万丈の人生と、その創造の秘密であるが、近頃これくらい面白い読みものもあまりないだろう。

 それは本書の折り返しで、当年とって77歳の文化功労者が、かのアインシュタインの真似をしてアッカンベーをしてみせる写真を見れば、一目瞭然だろう。

 あなたが、「素手で焔をつかみとれ!」という気恥ずかしい副題をつけられたこの本を読み始めても、あなたの期待は裏切られないだろう。だろう、だろう。

 そこには、この人物が、それぞれのエポックを代表するような、錚々たる人物と次々に遭遇しながら、切磋琢磨し、おのれの人生と芸術を築き上げて、今日の大をなしてゆく事の次第が、初めは処女の如く、終わりは龍虎の如き勢いで、鼻息も荒々しく、縷々陳述されているのである。であるん。

 彼の藝術的受容のキーポイントになっているのは、どうやら「声」らしい。 

 声、Voice、ヴォイス、ヨーゼフ・ヴォイス、Voice Of Yoshimasu

 例えば太宰治や柿本人麻呂や芭蕉、アレン・ギンズバーグの詩歌や散文には、エルヴィス・プレスリーやボブ・ディランに通じる生々しい声があって、これが心の奥底にまっすぐに届く、というのは、私のような門外漢でもたやすく追体験できる。

 声、Voice、ヴォイス、ヨーゼフ・ヴォイス、Voice Of Yoshimasu

 そのドーンとやって来る声=「内臓言語」は、彼が大きな影響を受けたと語っている聖句やエミリー・ディキンソンの詩、キェルケゴールの言葉、そして一休宗純の書にもどこか通じている、父母未生以前の原初的で普遍的な炎、のようなものなのだろう。

 そして彼はこの炎を自分のものにするために、心身を常に「非常時」に置き、原初的で普遍的な歌や声や踊りを宣揚するだけでなく、愛妻マリリア選手由来の“即席シャーマン”となって、それらに限りなく憑依するばかりか、夫子自身がそれらの発火源(詩魂の火の玉!)になろうと悪戦苦闘しているようだ。

 したがって彼にとっての詩的活動とは、幾たびも、また幾たびも詩魂の火の玉となって、この宇宙の創造主に体当たりせんとする特攻機のZigZag&螺旋運動、詩的テロルそのものであり、人はその軌跡を「作品」と称しているに過ぎない。
 この間の事情をば、わたくしめの詩で翻訳するなら、

『見よ韜晦の空あけて 旭日高く輝けばァ、
 今日も我らがGozo選手は単機Zero戦を駆って、紺碧の空の果て、言語も枯れる真空地 
 帯の極北を目指し、離陸していくゥ。

 かつてニーチェが「人間とは乗り越えられるべき何かである」(佐々木中訳)と定義したように。

 かつて「ゔぁれりー」が、「風立ちぬいざ生きめやもォ」と歌いながら「えらんゔぃたーる」の彼方へと飛翔したように。

 そしてまた、かつてセーレン・オービエ・キェルケゴールが、「反復とは繰り返しではなく、瞬間毎に生き直すことである」と喝破したように』

 ということになろうか。だろうか。そうだろうか。

 それでは、肝心の吉増剛造の詩の値打はどうなのかと問われたら、私は「あれらは出口なお刀自ではなく、出口王仁三郎が代筆した「大本神諭」のようなもので、その価値を論じてもあまり意味はない」と答えるだろう。だろう。

 それよりも「詩人は、すべからく詩作の内部で生きるほかはない。爾余は“半死にの余生”ということになるが、それもさして悪いものではない」というのが、私の吉増剛造観である。であーる。

 余談ながら本書を読んでいちばん感嘆したのは、著者が多摩美で「詩論」講座を受け持ったときに、ホテルに泊まり込んで200名のレポートを全部読んで、一人ひとりに全部違う出題をしたというエピソードであった。

 こういう離れ業は、学生と教育への愛と興味と誠実さがなければ、やりたくてもなかなか出来ないものである。

 声、Voice、ヴォイス、ヨーゼフ・ヴォイス、Voice Of Yoshimasu


 人はみな自爆装置を付けられて神様がスイッチを押す日を待っている 蝶人

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする