あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

伊吹和子著「われよりほかに~谷崎潤一郎最後の12年」を読んで

2017-11-25 10:37:38 | Weblog


照る日曇る日第1006回


1953年(昭和28年)、当時68歳だった谷崎は、右手を痛めて自筆では書けなくなったために、「潤一郎新譯源氏物語」以降の作品制作は、ことごとく口述となった。
そしてこの偉大なる国民作家が、亡くなる1965年までの大部分の口述筆記と個人秘書を担当した人物こそ、本書の著者なのである。

1929年に京都の呉服屋の娘として生まれた著者は、京都大学国文研究室に勤務していたところを澤潟久孝の紹介で谷崎と相まみえ、以後12年の長きにわたって、神経をすり減らすようなサーカスの綱渡りのようなきわどい交際を続けることになったのである。

谷崎という人は無類の女好きで、次から次に好みの若い女中を傍に置き、その中のお気に入りを、才覚と教養がなければけっして勤まらない個人秘書や口述筆記役に据えようとするのだが、なにせ極端に我儘で神経質な芸術家だから、最初はうまくいっても長続きしない。

ところが最後まで作家の愛玩物にはならなかった、あるいはなりえなかった著者だけが、作家の負託に立派に応え、最後まで作家の右腕、いや一心同体となって至難の職責を全うできたことは、ひとえに著者の寛容と忍耐、仁徳の賜物と褒めたたえるべきだろう。

松子夫人は別格として、いや松子夫人ですら容喙できない1対1の真剣勝負の時間と空間から観察された文豪の偽らざる実像は、その正確無比、沈着冷静な記述とあいまって真に迫ってものすごく、自決間際の三島由紀夫が「早く書け書け」と督促したのも無理からぬ興味津津の内容が展開される。

とりわけ病で倒れる直前に構想されていた2つの作品、「猫犬記」と「天児閼伽子の小説」(「瘋癲老人日記」の続編にして松子夫人一族への決別を告げる)が未完に終わったことは、悔やんでも悔やみきれない本邦文学の一大損失であったと言わざるを得ない。作家生活最後の創作意欲に燃えていた時期に、どうして三度目の谷崎源氏などに精力を注いでしまったのかと、著者ともども歯噛みしたくもなるのである。

そのほか、文豪は、最後まで京および京都人を愛したり深入りしたりせず、さながら観光客のような目で眺めていたこと、三度も「源氏」を翻訳しながら、光源氏と紫式部をてんで好きではなかったこと、けれどもそれらをば、おのが作家活動の素材として徹底的にしゃぶり尽くしたこと等々、興味深い指摘が続出して、研究者ならずとも谷崎ファンのわれらを喜ばせてくれる、じつにかけがえのない貴重な書物である。

最後に特筆したいのは、著者の知情意が一体となった見事な散文で、こういう凛とした日本語を、当節もっとも不感症にして醜悪な作文屋である「ダダダの塩野七生」に煎じて飲ませたいものダ。

  我といふ人の心はたゞひとりわれより外に知る人はなし 潤一郎「雪後庵夜話」


  平成も間もなく終わりそうなので西暦1本に切り替えませんか 蝶人

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする