照る日曇る日第1537回
上巻に続いて30代の若者とは思えぬ絵描きの自己と当時の美術界を見つめる鋭い省察が本巻を貫いている。
「印象派に時代を超えるだけの価値があるのか、まだそこまでの価値はないのか、僕にはわからない。」1889年6月9日テオへの手紙
「ひとことで言えば絵画によって表現されたものよりも重要な家の魂とか室内空間というものがあるのだろうか。あるのではないか、と僕は思い始めている。」同上
「次の印象派の展覧会の予告を見た。ゴーギャン、ベルナール、アンクタンほかの名前があがっている。どうやら他の既存の画派に劣らず強固な新しいが歯をつくたらしい。なんというコップの中の嵐のようなものだろうか。」同上
「今月中にまだ以下のようなものが要りそうだ。鉛白チューブ8本、ヴェネローゼグリーンチューブ6本、ウルトラマリンチューブ2本、コバルトブルーチューブ2本、イエローオーカー2本、レッドオーカー1本、ローシェンナ1本、アイボリーブラック1本」
37歳という若さで1890年7月29日に死んでしまったファン・ゴッホの手紙は最期に近づくに従ってまるで己の命終を察知していたように悲壮の度を強め、それが結婚して息子が誕生したばかりの弟テオ一家の束の間の幸福と対照をなすようで読むのがつらい。
そして兄フィンセントが、テオの息子の誕生を祝って贈ったのがあの大傑作「花咲くアーモンドの木の枝」だが、その青空に映える純白の花を見ていると、兄の死後わずか半年でそのあとを追った弟の薄幸を思って涙がチョチョ切れるのである。
じっさいテオの献身的犠牲によって支えられた兄フィンセントの栄光の日はすぐそこまでやってきていた。
死の年の1月には評論家オーリエが美術雑誌で激賞し、2月にはブリュッセルで開かれた「20人展」が好評で、彼の「赤い葡萄畑」が初めて400フランで売れたのである。もしも繰り返し彼を襲った発作が収まり、フィンセントをしてあと数年、いや1年の余命を天が許せば、現在に続く高い芸術的評価が全世界に湧き起こったことだろう。
森麻生慎太郎に安倍蚤糞連綿と続く人でなしの系譜 蝶人