照る日曇る日第1749回
本書あるいは村上春樹を語る時、忘れてはいけないのは彼の小説の中身よりも、むしろその個性的でユニークな文体である。
この文体は、人によっては「やれやれ、またか」とウンザリさせるように村上調の手垢にまみれ、今では何の変哲もない陳腐でありふれた語り口となってしまった感があるが、にもかかわらず多くの識者が証言するように、彼が偏愛するフィッツジェラルド、ヴォネガット、ブローティガンなどアメリカの新しい作家から影響を受け、その翻訳を手がける中で、あの軽妙でユーモアとウイットに富む語り口を自家薬籠中のものにしていったのである。
因みに、最近の彼の翻訳を一瞥してみよう。
「そして一人の娘が、二番目に好意を持っている男性に向かって、もう一人の男の話をするとき、それはつまり彼女が恋をしているということなのだ」(スコット・フィッツジェラルドの小説「最後の大君」より)
さほど特別な言い回しではないけれど、ありふれた恋をありふれたものに堕さないための創意工夫がひめやかに洩らされている点で、村上選手自身の文体と見分けがつかないほど知的でデリケートな表現といえるだろう。
我々読者は、古くは平安時代の紀貫之の「土左日記」、明治の二葉亭四迷の「浮雲」、新しくは橋本治の「桃尻娘」、俵万智の「サラダ記念日」、嵐山光三郎の「昭和軽薄体」など、どんな時代にも他の作家とはひと味もふた味も異なる味わいの文体を求めてきた。
そして村上春樹の新型米国文学を骨肉化した融通無碍な語りは、若き日の江藤淳の鞭のように鋭くしなる散文と並んで、かつて本邦の新感覚文体の最先端をさながら陽気な尺取り虫のように乱歩迷走していた事実を忘れてはならない。
ウクライナてふ主題をしゃぶり尽くし変奏の限りを尽くす世界のマスコミ 蝶人